バルダー果樹園の果樹園一覧

◆ワイン用ぶどう園(上田市)
・光の園 上・中・下
・風の園 大・中・小


品種構成は、将来的に収穫時期別の三種類のワインを作るべく、
早生:ピノノワール
中生:シラー+カベルネフラン
晩生:カベルネソーヴィニヨン+カベルネフラン
をそれぞれ植えている。

◆シードル用りんご園(東御市)
・水の園 大・小

品種構成は、将来的に収穫時期別の三種類のシードルを作るべく、
早生:シナノリップ+祝
中生:シナノゴールド+紅玉
晩生:サンふじ+グラニースミス
をそれぞれ植えている。

◆バルダー果樹園の農業について。
トップページにある通り、バルダー果樹園は、
バルダー果樹園の顧客が、食べた時喉から上がる香りから感じる、
「感動」の材料の量を、最大化したワインを作る。

その為に、皮や種まで香りが完成された果実を作り、
果実の持つ、「複雑で、曖昧で、個人的な」香りを最大化する。
そういう果実を、便宜上「最高の果実」と呼ぶ。

では、最高の果実を作る果樹農家の農業とは、どういったものなのだろうか。
私は、「樹勢を弱める」事と、「日当たり風通しを良くする」事の二つが、
最高の果実を作る上で大事な要素だと思っている。

◆「樹勢を弱める」編。
私なりの樹勢という言葉を説明する上で、私なりに分かりやすい例えを出すなら、
果樹農家は果樹の事を、儚げな美少年のように仕立てて行かなければならないのだと思う。

まず大前提として、
人という生き物は、生まれてくる時に、
自分の人生の目的を、お土産のようには持たされずに生まれてくる。
それ故、生まれた後に自分で考えて、自分の人生の目的を決める事が出来る。

一方、果樹という生き物は、種の繁栄という目的を持って生まれてくる。
ぶどうなら、ぶどうという種の繁栄、あるいはぶどうという種の滅亡の可能性を減らすような選択、
そういったものに、高い価値を感じるようになっている。
種の繁栄という人生の目的を、果樹は自分で変更したり上書きする事が出来ない。

とはいえ、人が自分の人生にどんな目的を設定しようが、
人が日々、何かを考えたり悩んだりしながら生きているように、
果樹だって、人生の目的は変えられなくても、
何が最も種の繁栄に貢献する行為なのか、常日頃から考えてはいる。

果樹という生き物は、その名の通り果実を作るタイプの樹を指す。
自由に歩いてどこかに移動できる動物と違い、樹は生えてしまったその場所から移動する事が出来ない。
よって、種を遠隔地に運ぶという行為は、果樹に限らず多くの植物で価値の高い行為なのだ。

軽く小さくプロペラがついたような種を大量に作り、それを風で飛ばすような樹もある。
それに対し果樹は、種の周りに果肉を付けて果実を作り、それを動物に食べさせる。
そしてフンと共に、遠隔地に種を運ばせる。
そういう生存戦略を選択した生き物が、果樹と呼ばれる。
基本的に果樹からしたら大事なのは種であって、果肉ではないのだ。

果樹が、種の繁栄の為に選べる生存戦略は、おおまかに分けると二種類ある。

一つは、自身が最大最強の果樹になろうとする事で、
自身が果樹として何十年もそこで生き続け、種の繁栄に貢献するという方法だ。
もう一つは、自身が大きな果樹になる事を諦め、子孫に託す方法を採り、
多くの果実を付け、種により多くのリソースを割き、種の繁栄に貢献するという方法だ。

果樹は、この二つの選択肢の中で、
どちらがより効率的かを、常に考えて選択している。
前者の、自身が最大最強の果樹となり、永遠に生き続けようとする方向を、
「樹勢が強い」状態と呼ぶ。
後者の、自身の生存を諦め、種に注力し後世に託そうとする方向を、
「樹勢が弱い」状態と呼ぶ。

果樹園には果樹とは別に、果樹農家という生き物もいる。
果樹農家は、人を少しでも生きやすくする事ができる、道具的価値のある果実を欲しがっている。
もちろんそれは、果樹そのものの人生の目的とは合致しない考えである。
だから果樹農家は狡猾に、果樹の樹勢を弱め、人の為に最高の果実を収穫しようとする。

最高の果樹が欲しいのか、最高の果実が欲しいのかと言われたら、
果樹農家は、最高の果実を欲しがる者であろう。
最高の果樹が、健全で健康で、何者にも犯されない強さを持っていても、
そんな果樹が作る果実は手抜きもいいところで、人を生きやすくする性能が低いのだ。

だから、果樹農家は果樹の勢いを弱め、生かさず殺さずの状態にする。
本当に果樹が枯れてしまう事は、果樹農家からしても困るのだが、
果樹に自身が枯れる可能性を自覚させないと、果樹は真面目に果実を完成させようとしないのだ。

だから果樹農家は、果樹を儚げな美少年のように仕立てるのだ。
自身が最大最強の果樹になり、永遠にそこに立っているだけで種の繁栄に貢献できるなどと、
微塵も果樹に思わせてはいけないのだ。

◆日当たり風通しを良くする編。
樹勢が弱い果樹が作る果実は、皮や種に至るまで果実の香りが良くなる。
ただ、ぶどうの果汁が甘くてぶどうっぽい事そのものに、価値なんてないのだと思う。
皮や種に至るまで香りが最大化された果実は、当然の如く果汁の香りまで最大化されている。
ぶどうという言葉で語っても、品種名で語っても不足を感じるような、
「複雑で、曖昧で、個人的な」香りが、そこにある。

端的な言葉で全てを名状できてしまうような香りの果実は、不完全な果実だ。
最高の果実は、「この果実の香り」としか表現できないような香りを持っている。

だが、樹勢を弱めるというのはある意味、
最高の果実を作る際の、下準備みたいなものだ。
実際に最高の果実を作りたいなら、樹勢が弱い状態の果実に、
最高の日当たり風通しが得られる環境が無ければならない。

果実というものは、春から花として果樹にくっついていて、
その後も秋の収穫まで長い間、果樹にくっついている。
その間、多くの日を浴び、多くの風に撫ぜられる。
収穫直前の果実の皮に、しっかりと日や風が当たると、その果実の香りは一気に完成していく。
そもそも日や風がよく当たらぬ果実は、仮に樹勢が弱くても、香りが最大化されない。

もちろん、果実だけでなく果樹全体に対して、日当たり風通しは大事である。
葉に日が当たって光合成をする事も大事、なんて単純な話ではなく、
樹皮を風が撫ぜるだけでも、そこには虫や病気が出づらくなる効果がある。
むしろ、日当たり風通しの悪い暗くてじめじめした場所を、果樹園の中に一か所も作らない事が、
果樹園全体の効率にとって、とても大事だったりする。

また、どれだけ日当たり風通しを良くしようとして、
日が当たり風が通るような余白の多い樹形や、果樹園の配置を作ってみても、
結局、一番日当たり風通しの良い果樹園は、無駄なものが何も無い果樹園である。
そもそも日当たり風通しの良い気持ちの良い斜面に果樹園を作る、というのは大前提だが、
果樹園に建てるだけで単位面積当たりの日当たり風通しの量を爆増させる、
なんて都合の良い道具は存在しないのだ。

なので、日当たり風通しによる果実への好影響を最大化したい場合、
出来るだけ省力化し効率化した農業システムを作り、
広い面積を楽に管理していく事が大事であろう。
単位面積当たりの収量を増やすのではなく、単位労働力当たりの耕作面積を増やす事で、
最高の果実を、価格を抑えて販売する事が出来る。

◆樹勢の弱さと、日当たり風通しの兼ね合い。
日当たり風通しが悪くなるからと、果樹農家は果樹の枝を切りたくもなる。
だが、果樹に刃を入れれば、果樹は反発し、樹勢を強くしてしまう。
果樹の地面の下の部分が、根から吸い上げるものの量は変わらないのに、
果樹農家が地面の上の果樹の量を減らせば、それだけ果樹は強く芽を伸ばそうとする訳だ。

100人と100人でギリギリの接戦を繰り広げていた綱引きから、
片方から急に20人ぐらい宇宙人がUFOで連れ去ってしまったようなものだ。

かといって、全く果樹の枝を切らなければ、果樹の枝は混み合い、果実に日も風も当たらなくなる。
りんごの主幹形という、クリスマスツリーのような樹形は、別名自然形とも呼ばれるが、
自然にりんごの木を上に伸ばし続ければ、りんごの木は無限に高く伸びようとし続けて、
無事に最大最強の果樹となり、果実を完成させる気なんか無くなってしまうのだ。

しかし、どこまで行っても果樹農家は狡猾なのだ。
まず、「誘引」という行為を行う。
枝を引っ張って曲げたり、垣根に止めたりして、果樹に刃を入れる事なく、
樹勢が弱まり、日当たり風通しのいい樹形になるように誘導する。
果樹農家は、刃を入れずに誘引で済むものは、極力誘引で済ますものだ。

だが、誘引で全てうまいいくかと言われると、そうでもない。
最終的に果樹に一切刃を入れない事は、日当たり風通しを最大化する上で実現困難だ。
だから果樹農家は、果樹が冬眠している冬に、まとめて日当たり風通しに障る枝を切る。

先ほども言った通り、果樹は春から秋までずっと果実をくっつけていて、
その間に果樹に刃を入れると、効果覿面に反発して樹勢を強くし果実を作る気を減退させる。
だから、冬眠している間にこっそり切ってしまうのが、一番果実の香りへの悪影響が少ないのだ。
これを、果樹農家は「剪定」と呼ぶのだ。

こうして果樹農家は、樹勢を弱めたり日当たり風通しを良くしたりして、
果樹の生き方を歪めながら、狡猾にも最高の果実を収穫しようと目論んでいる。

◆果樹園は、人の生き方の形の一つ。
私はよく、果樹園は自然ではないと言う。
そもそも果樹における品種というもの自体が、長い歴史を経て人の都合で選抜されてきたものだ。
果樹園というもの自体、同じ果樹がたくさん植わっている時点で不自然だ。
だからこそ、果樹園の責任は、自然ではなく果樹農家にあるのだと思う。

結局、果樹農家には果樹農家の理屈があり、果樹には果樹の理屈がある。
果樹農家が果樹の理屈を無視して強引に何かを強制しようとしても、
果樹に強く反発され、全然うまくいかない事が多いだろう。

何事も、最終的には話し合いなのだ。
人がそれぞれの人生を生き、時に他人との価値観の相違に驚愕したりしている。
でも、それなりに腰を据えて話し合って折り合いを付けながら、
このクソッタレな人生が、少しでもマシなものになりますようにと、皆が前に進んでいく。
果樹と果樹農家だって、同じようなものだ。

私は個人的に、阿部公房という作家が大好きなのだが、
阿部公房氏が作った架空の虫に、ユープケッチャという虫がいる。

ユープケッチャはフンコロガシの亜種のような生き物であり、
一所から動かずに、フンを出しながらその場で旋回し続け、
半周前に自身の出したフンを食べながら回り続けて、
完全な閉鎖生態系として生きる事が可能な虫だ。

「人に迷惑をかけない生き方」というものが仮に存在するとしたら、
きっとユープケッチャのような生き方を指すのだろう。
だがもちろん、これは架空の虫であり、
完全に人に迷惑をかけない生き方が存在しないのと同じように、
ユープケッチャだって存在しないのだ。

私が学生時代に学んだ倫理の教科書で、一番好きなページは、
「人に迷惑をかけない生き方」を、様々な教科書の登場人物の思想から解釈し、
「人に迷惑をかけない生き方」が、そんなに単純な話ではない事を説明してくれているページだ。
ソクラテスが「善く生きる」という言葉を使ってから2400年以上経った今でも、
倫理の教科書には、生き方の正解なんて一つも書かれていない。

果樹園は自然でもないし、閉鎖生態系でもない。
日当たりも風通しも、果樹園の外からやってくるし、
果樹農家は、果実を人に売らねば生きていけない。

果樹農家は果樹に迷惑をかけているし、人は人に迷惑をかけながら生きているし、
果樹園に正解なんて、そもそも無いのだろう。
果樹園とは、人の生き方の形の一つでしかないのであろう。

人の生き方が、人に迷惑をかけていようがいまいが、
人それぞれが、なんとなく人と関わり合いながら、
その人なりに生きようとする事の価値を、高く見積もりながら生きていたいと、
私は思っている。