何故、ワインを売るのか。
バルダー果樹園が、
買い物という互いの合意の上で交わされる約束において大切にしている事は、
その価値と値段に納得して買う、という事だ。
バルダー果樹園の母は、いつもこだわりの鍋で米を炊いていたので、
私が自炊をしようとした時、私は炊飯器を使った事がないどころか、
人生において炊飯器というものを見た回数そのものが、ほとんど無に等しかった。
エントリーモデル、という言葉があり、
最低限の機能が揃った上で、価格が安く抑えられていて、
そのジャンルの商品を一切使った事がない人でも、買いやすい商品の事を指す。
ダイソーで500円で買える小さなコーヒーのフレンチプレス器などは、
エントリーモデルの最たる物だろう。
炊飯器を使った事がない私は、そんなエントリーモデルの安い炊飯器を一つ買った。
そしてそれを実際にある程度使ってみたから、
自分が欲しい機能を取捨選択できるようになった。
その上で私は、メンテナンス性などに拘ったもう少し高い炊飯器を買って、愛用している。
結果的に、最初に買った炊飯器の出番は少なかったかもしれないが、
私はその価格に対して、私に炊飯器という経験をさせてくれたという価値を認めている。
エントリーモデルが無かったら、私は炊飯器に触れずに一生を終えていたかもしれない。
バルダー果樹園が商品を売るなら、私の顧客が不幸な誤解をする機会を減らしたい。
ワインの価値は、最終的に、
ワインを楽しむ顧客側の人生における体験の価値として出力されると思っている。
それなら、ワインの価値が高い事だけでなく、
その価値に納得して買ってもらう事も、不幸な誤解を減らす努力として大事であろう。
人は人を理解できないからこそ、私はその価値を説明する言葉を躊躇ってはならない。
バルダー果樹園の果実酒の価値は、
人を生きやすくするために、人が作ったものである、道具としての価値である。
人にやさしくありたい、という目的を設定できる存在は、人であって、自然ではない。
バルダー果樹園が、言葉を惜しまない農家である為にも、
ここに、私がワインを売る理由を、語っておこう。
◆「りんごに謝れ!」。
アルカンヴィーニュの1期に応募して、初めて受けた授業で、
農業は、人類史で最初で最大の環境破壊だ、という言葉を聞いた。
バルダー果樹園が当時それを聞いた時は、その言葉の意味が分からなかった。
だが、今ならわかる。農業ってのは、少しも自然じゃない人の営みだ。
農業を始めた人類が、大量の原初の自然を、人の手の加わった農地に変えたら、
それは、人類史上最大の環境破壊だろう。
そもそも、ぶどうばかりたくさん植わっている果樹園なんて、
その時点で、少しも自然な状態ではない。
人が不自然にぶどうをたくさん植えて、不自然にぶどうに害を為す虫が増えて、
人がそれらに、ぶどうの害虫という言葉のラベルを貼り付けただけだ。
そこに作物が無ければ、害虫も存在しない。
バルダー果樹園が、二年間の農業の実地研修をしていた時の一年目に、
私と私を指導する社員の二人で、研修先の管理するりんご園を回っていて、
とても作業が追い付かず、りんご園がひどい有様になった事がある。
そこで愚かな私は、アルカンヴィーニュを卒業して農家になるか悩んでいた私を拾ってくれた当時の常務に、
「りんごに謝れ!」と言ってしまった。
もちろんバチクソに怒られて大変な事になったし、
今の私が考えても、どう考えても私が悪い事なのだが、
その一緒にりんご園を回っていた社員が、私に諭すように言った言葉がある。
「果樹農家は、果樹を愛玩動物にしているんじゃない、
果実で人を笑顔にするために、果樹を育ててるんだろう?」
この言葉が、私の果樹農家としての始まりの言葉であり、原点だったのだろう。
バルダー果樹園が、果樹園は自然ではないと語る時には、
いつも、「りんごに謝れ!」と言った昔の私を、強く後悔しているのだ。
彼が言っていた別の言葉で、「密度を減らす」、という言葉がある。
農業において100%は存在しない。
でも、失敗の密度を減らす為に何かをする事は、決して無駄じゃない。
果樹農家という生き物は、その時々で農作業の優先順位をきっちり付ける事を大事にする。
それは、農業に100%は存在しないからこそ、
今自分が何をする事が、結果的に果実の品質のパーセンテージを最大化できる行動であるか、
果樹農家は選択し続ける必要があるからだ。
彼は、農作業の休憩時間によくタバコを吸っていた。
バルダー果樹園はタバコという趣味を嗜まないが、
休憩に入ってすぐにタバコを吸う、というのは、
自分の体に休憩時間を認識させるスイッチとして、優秀なように思えた。
だから私は、アウトドア用の椅子にこだわり、休憩時間になったらそれに座り、果樹園を眺める。
休憩というものは、休憩した方が作業効率が良いから休憩するものだ。
同じ休憩時間で、より休憩した効果を得られれば、それもまた効率が良いだろう。
◆ネクロマンサー。
私のりんご園の元園主は、既に亡くなってしまったが、
彼が80歳以上の老齢の時に、私は彼に剪定を教わったりした事がある。
商機に敏感な人で、脱サラしてりんご農家として大成した人であり、
生まれる時代が違えば、彼もワイン用ぶどうを植えていたかもしれないと想像したりする。
バルダー果樹園のりんご園は研修先が管理していた成園を継承したもので、
私がこの園を初めて見た時は、本当に森のようになっていた。
だから私は、私の農家歴よりも長い樹齢のりんごの木を、たくさん切った。
元園主は、私に剪定を教える時に言っていた。
「冬に徒長枝を切れば、木を切る仕事はほとんど終わりだ。」
もちろん当時のりんご園は、実際の所とてもそうはならない状態だった。
ある時、元園主の知り合いを名乗る、隣町のりんごの組合長がやってきた。
その時に、「あいつは元々、めちゃくちゃりんごの木を切ってスカスカにするタイプだった。」
という言葉を聞いた。
バルダー果樹園は、バルダー果樹園なりに、
それらの言葉から元園主の全盛期の樹形を想像して、それを大きく参考にしつつ、
私が求める最高の香りを持つ果実を収穫できる、樹形というシステムを作ってみたのだ。
彼らの言葉が無ければ、私は今でも、りんごの樹形に悩んでいたかもしれない。
彼が80歳になっても、イカした古いダットサントラックで果樹園に来ていたのなら、
バルダー果樹園も、80歳まで果樹園に通い続けようと思った。
私はいつも、死んでしまった人の言葉ばかり話すから、
私の事を、ネクロマンサーと呼んだネットの友人が居た。
私は、自分が誰かから聞いて、いずれ自分そのものになっていった言葉達を、大切にしたいのだ。
実際に彼らが生きた人生そのものに、私が触れる事は決して出来ないのだから、
彼らが私に与えてくれた言葉の全てを、私は愛していたいのだ。
◆最強の補助輪。
バルダー果樹園が考える最強の定義は、
一度最強に至ったものを、簡潔に再現できるようになって、
初めて本当に最強だと認められる、と考えている。
それを表す言葉として、
私の考える最強のイメージは、最強の補助輪である、と言ったりする。
最強の鬼は、それ単体では最強ではない、
最強の鬼に最強の金棒を持たせなければ、最強には至れない。
仮に、ある天才的な職人が一時的に最強に至ったとしても、
それを誰もが手軽に使えるようにするまでが、最強の補助輪の範疇だ。
バルダー果樹園は、最強に至れないからこそ、最強を目指す価値がある。
多くの失敗と後悔をかき集め、最強に近づこうと努力をする意味がある。
バルダー果樹園が、果樹農家としての新たな価値を提示する事で、
長寿で有名な長野県の、やたらパワフルな老人達が、
「バルダー果樹園が何を言ってるかはわからないけど、
バルダー果樹園みたいのが居るから、この地域の未来は明るい。」
と思い、安心して最後まで最高の人生を送ってほしい。
隙あらば孫や息子夫婦の話をして、彼らの人生がより良くある事を願いながら、自分の死を見つめている。
令和の世界観で考えたら、少し時代遅れでノンデリな発言もするかもしれない。
でも、そんな老人達が安心して最後まで生きていけない社会では、
今度は現代の若者達が、自分が老人になっても最後まで長生きしたいと思えなくなる。
長野県産の果実酒の平均的な品質の高さがすごい事になり、
長野県の傾斜地の耕作放棄地が、奪い合うように開墾されて全部果樹園になって、
それを飲んで楽しむ県外の人々も、誰も想像できないほどに自分らしく生きて、
それらのたくさんの人生一つ一つの目的達成効率が1%づつ上がり、
その一つ一つの積み重ねが、社会の中で相乗効果を生みながら車輪のように回転して、
人の人生は、ほんの少しだけハッピーになれると考える。
官民連携で地域おこし、なんて言葉が最近はある。
一昔前だったら、地元の役場と地元企業が連携などしようものなら、
癒着だと言われていたかもしれない。
だが、ネット社会の現代においては、地域全体がスルーされる可能性がある。
だから生き残りを賭けて、手を取り合うしかない。
地域そのものの価値が低いと判断されれば、地域ごと消えてゆく時代なのだ。
森のようになっていた耕作放棄地の付近の公図を調べると、元は畑や道だった事がわかる。
地元就職を希望する若者が多くても、仕事が無ければ東京に行ってみるしかない。
家というものは、中に人が居ても居なくても頑丈な構造で作られているはずなのに、
人が住んでいない家は、何故かすぐにボロボロになってゆく。
人が形を定義したものは、物理的なものでも精神的なものでも、
人がメンテナンスしなかったら、すぐに風化して形を失うものだ。
持続可能な社会への取り組み、という言葉があるが、
目の前に、持続不可能になって消えていった社会の一部が転がっている果樹農家なりに、
持続可能な社会への取り組みをするなら、
果実の価値を最高にして、それを誇る事しか出来ない。
未来の人類にとって、化石燃料という資源は枯渇するとして、
今はエンジンで動かす事が効率の良い道具も、未来では別の動力で動いているかもしれない。
果樹農家ではない誰かの個人的な人生が、きっとそれを実現するだろう。
だが、未来の人類がどんな動力を使っていようが、
エンジンのついた道具を使って、最高の果実を作る方法を愚直に追究した不器用で個人的な果樹農家達の歴史は、
未来の人類にとっても、価値のあるお土産だろう。
ダイヤルアップネットワークの接続音を聞いた事がない若人達の将来の夢に、
配信者と並んで、果樹農家がランクインするぐらい、
果樹農家という職業の価値が、高まって欲しいと思っている。
果樹農家なんてバカで不器用な仕事が憧れの職業になる社会は、
とても人らしく、文化的で、贅沢な社会であろう。
人は、人を真似て、人を学び、人になるように、
人の営みは、先人に学び、先人を超え続けてきた歴史だ。
私が、先人に学び、先人を超える事は、
去り行く先人達へのねぎらいであり、私が先人になった時の安心の為でもある。
私が老いたら、その時代を担う果樹農家達が、
私の想像もできないような、素晴らしく強く、素晴らしく人にやさしい未来を描き、
何もわからんと困った顔をしながら、死んでゆきたい。
それが、バルダー果樹園の考える最強の補助輪の概念である。
人はもっと傲慢に、自分らしく生きてもいい、なんて言ったりもする。
自分の頭が良いと思ってそれを誇るなんて、誰にでも出来るみみっちい傲慢さだ。
自分の頭が悪いとわかっていて、それでも私は胸を張って生きると決める方が、
よっぽど尊大な傲慢だろう。
私が勧める傲慢さは、何かが出来る事を人に誇るような、中途半端な傲慢さではなく、
確かに私は何かが出来ないが、それで私の人生に文句でもあるのか?と誇るような、
人生が自分に何かを失わせた事そのものを誇るような、もっと強力な傲慢さだ。
私が私である理由というだけで、私を誇りながら生きられる方が、
人は生きやすいだろう。
◆食べ物の価値は、香りである。
バルダー果樹園にとって、食べ物の価値は香りであり、
人が食べ物を食べて感じていると思っている「うまさ」は、
厳密には舌が感じる味覚ではなく、鼻が感じている香りなのだと言う。
この話は、バルダー果樹園がアルカンヴィーニュの1期で聞いた、
嗅覚に関する、どこかの大学の偉い教授の授業を参考にしている。
香りには二種類の香りがあり、
一つ目の香りは、
人が自分の体の外側にある空気を、鼻から吸い込んで香る香りで、
二つ目の香りは、
自分が食べた物が体内で熱されて喉から上がってきて、体の内側から感じる香りである。
この二つ目の香りが、
人が食べ物を食べて、その食べ物らしさを感じる大きな要因である。
ワイングラスに鼻を突っ込んで香る香りは、一つ目の香りでしかない。
バルダー果樹園のワインは、一つ目の香りでなく、二つ目の香りを最大化するように作られている。
それ故、バルダー果樹園のワインはワイングラスでなくコップで飲んでもいい。
五味は、五種類しかない雑魚感覚器官だ。
バルダー果樹園は、バカ舌という言葉が好きではないが、
その理由は、そもそも舌という感覚器官がバカだからだ。
人がオムライスを食べてオムライスだと感じるのは、オムライスの香りがするからで、
オムライスの塩味甘味酸味苦味旨味の五種類のグラフを見ても、
人はオムライスらしさを感じる事はない、と私は言う。
風味という言葉があるが、風を舌で舐めても味はしないし、
鼻をつまんで食べた食べ物は味がわからない、という話もある。
嗅覚は感覚の種類が多く、脳に与える情報量が多いからこそ、
同じ香りを嗅ぎ続けると、それが感覚として無臭に近づく、
という脳に対する情報量のリミッターがかかっているという話も、
この授業で聞いた。
人にとって無臭とは、その人の体臭であるから、
ワインの香りがわからなくなれば、
手の甲を嗅ぎ、自分の体臭を嗅ぐ事でリセットできる、とも言う。
人が飽きる、という現象も、この同じ香りが無臭化する流れに似ている。
人が何かに慣れて、何かを為せるようになる事と、
人が何かに飽きて、それを出来なくなる事は、
同じカテゴリの話だと考える。
バルダー果樹園はいつも、長野の山の上の果樹園で、
ソーシャルディスタンス5反の果樹園できれいな空気を吸って生きているから、
東京の電車や駅の空気は、臭くてたまらない。
人の一人一人の体臭なんて、いくらしてもよいのだ。
果樹園で香る土や草の香りと同系統の香りで、どれも嫌ではない。
だが、体臭を隠す為の芳香剤の香りが強すぎるのだ。
植物や動物からしたら、人という生き物は凄まじく臭い生き物らしい。
という言葉も、この授業で聞いた言葉だ。
体臭は、思想と似ているものがある。
思想を持たず体臭も持たない人など、そもそも存在しないのだ。
バルダー果樹園は、人の気持ちが感じられない病気なのではなく、
自分なりに人の気持ちを感じた結果を、自分の人生に採用して生きた結果が、
あまりにも人にやさしくなくて、たくさん後悔してしまったから、
自分が感じる人の気持ちを一切自分の人生に採用せずに、
考古学のように、人について考えるようになっただけだ。
「人の気持ち」などという、あまりに単純で画一的で、血の通っていないプラスチックのような言葉より、
「思想」という言葉の方が、よっぽど複雑で曖昧で個人的で、人らしさが匂い立つ言葉だろう。
そもそも無臭の定義である体臭が、人によって違うのだから、
人が何を良い香りと感じるかは、人によって違う。
そしてそれは、その人生が嗅いできた香りの歴史に依存する。
いろいろなものの香りを嗅いだ事がない人は、
ワインの香りを何かに例えようとした時に、例える言葉に窮する事がある。
何万円もするとんでもなく高級なワインだって、
毎日飲み続けたら、その値段分の感動を得られなくなるだろう。
ワインなんて、飽きない程度にたまに飲んで、
毎回、めっちゃ香りええやん!と感じるぐらいの方が、道具としての効率がいい。
私は昔から本を読んでいて、奮発という言葉が出てくると、少しテンションが上がったものだ。
普段は質素で簡単な食事をしていても、たまに奮発して豪華なうまい飯を食う。
そんな小さな自分へのご褒美が、人の精神には案外効果があるのだ。
バルダー果樹園のワインも、毎日飲むワインというよりは、
たまに奮発して作った料理に添えて、
より自分へのご褒美になるようなワインであってほしい。
◆人生一杯目のワインは、まずくて当たり前だ。
人の感覚の五味に含まれる苦みや酸味は、
動物としての人間が、腐った食べ物を食べないようにするためのセンサーとしてついている。
幼児に初めてレモン汁を舐めさせれば、しばらく泣き止まないだろう。
酒を飲んで、酸味がいいとか苦味がいいとか言う人は、
人生の経験によって、感覚を歪めているだけだ。
だが、人生が人を歪める事にこそ、価値があるのだから、
気軽にワインを試してほしいと、私は思う。
ワインは、肉体的な意味では健康に悪い。
バルダー果樹園のワインのラベルにも、それは強調して書いてある。
毒にも薬にもならない言葉よりも、
毒にもなるし薬にもなる言葉が好きだ。
その言葉を聞いた時には、なんとも思わなくても、
後々の自分の人生経験とリンクして思い出された時に、道具として人を生きやすくする言葉が、
私は好きだ。
酒を飲まなければやってられない人生を、酒を飲む事でやっていけるようになるなら、
酒という道具には、価値があるのだろう。
人という生き物は、精神的な部分の割合が大きい生き物だ。
どんなに肉体的な健康に気を使っても、精神的ストレスで体がボロボロになったりする。
ストレスは、人から考える事そのものを奪う。
偽薬効果とか、プラシーボ効果と呼ばれるという言葉があり、
何の効果もない偽薬を薬だと思って飲めば、本物の薬を飲んだような効果が得られたりする事もある。
病は気から、なんて言葉もあるが、
本物の薬を飲む場合でも、それが今の自分にどう必要か意識して服用する事で、
薬の効果に偽薬効果を加え、さらに薬の目的達成効率を高められる。
腹を痛めて内科に行って抗生物質が渡されたり、
巻き爪を形成外科の手術で切除してもらったりする事は、
ある程度、病気の原因を直接的に解決していると言えるだろう。
だが、精神科の処方する薬は、病気の原因を直接的に解決できない。
できる事と言ったら、寝れない人を、寝る事が出来るようにする事だ。
精神科の薬というものは、精神そのものを修復しない。
他の科のように、病気の原因を直接治療する事は出来ない。
人は、たくさん食ってたくさん寝る事でしか、精神を治せない。
人はたくさん考えるために、
うまいものを食べて、香り高い酒を飲んで、たくさん寝る必要がある。
毎日ワインを飲む奴が偉い、なんて事はない。
正しいワインなどないからこそ、ワインは楽しい。
ソムリエの言う通りに食べ物とワインを合わせないといけない、なんて事はない。
ソムリエってのは、ただのワインをオススメしたいワインオタクの一種だ。
どんな趣味も、その道の早口オタクを横に置いておくと、楽しみやすい。
ワイナリーの売店でバイトしていた時、ある老婦人が、
私は、肉料理には赤ワインを合わせなければならない、魚料理には白ワインを合わせなければならない。
そう厳しく教えられて生きてきました。と言っていた。
私は思わず、私がワインという趣味を始めた時、
たまたま家にあったちょうしたのさんまの蒲焼の缶詰と、たまたま家にあったワインを合わせて、
これが合うとか、これが合わないとか、自由に試したから、
私はワインが好きになったという話をした。
仮に、この世にワインという趣味が偉そうで敷居が高いと思う人が、一人でも居て、
ワインという趣味を試す機会が、一回でも失われているのなら、
それは、全てのワイン関係者の怠慢の責任であり、後悔し改善すべき事なのだろう。
バルダー果樹園は、その後悔を忘れたくない。
仕事からの帰り道で、その時食べたい飯をテイクアウトしてきて、一人の部屋で食べる時、
ワインを添え、これが合うとか合わないとか、自分なりに試して、楽しむ。
どんな食べ物とどんなワインが合うかなんて、
皆さん一人一人が、個人的に自由に、決めてほしい。
この食べ物とこのワインは流石に合わなかったな、という体験にだって、
その人生の一部の価値を、誇ってほしいと思う。
◆千曲川ワインバレー。
新参に優しくない古参ゲーマーは、ゲームの経験量が中途半端なゲーマーだ。
自分がそのゲームを長く遊びたければ、対戦相手を減らすような行為は効率が悪い。
初心者育成において大事なのは、生徒にとっての先生を一人だけにしないことだ。
様々な考え方のたくさんの先生を用意して、
誰かと合わなくても、別の誰かに学べる逃げ道を用意する事だ。
千曲川ワインバレー、という言葉があり、
長野県の他のワインが盛んな地域より、個性派が多い事が売りらしい。
バルダー果樹園が好きでなくても、他にも様々なワイン生産者がたくさんいる事は、
ワインという趣味を勧める一人のオタクとして、悪くない事だと思う。
千曲川ワインバレーは、意味不明な個性派揃いの百鬼夜行とでも言われた方が、
全国的に見て、千曲川ワインバレーに興味を持つ人が増えるのではないかと考える。
長野県の寒暖差は、果実の香りに対して非常に有利だが、
平らで正方形に近い、生産効率の良い巨大な農地を確保できない事が、長野県の不利な点だ。
長野県は、りんごもぶどうも生産量が全国二位で、
青森や山梨には、生産規模ではまるで勝てない。
だからこそ長野のりんご農家は、昔からりんご農家の個性を売りにしてきた。
長野県のりんご園はどんどん伐採されて、シャインマスカットの棚になっている。
今も儲かっている長野のりんご農家は、
誰々さんのりんごだから、という理由でりんごを買ってくれる固定客が居る。
東京の人から見たら、
別に、長野のワインでも北海道のワインでもフランスのワインでも、
自分にとって価値があれば、何でも良いのだ。
ふるさと納税は、全ての都道府県が生き残りを賭けて特産品の価値で税収を奪い合う戦争だ。
長野のワインの品質が高い事が、長野のワインに興味を持ってもらえる理由になる。
全ての人生の可能性の価値が、平等に最高であるように、
全ての果樹農家が、傲慢にそれぞれの最高の品質を誇れば良いのだ。
未来の千曲川ワインバレーには、
私の想像もできないような、様々なワイン生産者が増えてほしいと思う。
いろんなやつがいる事自体が、有性生殖の生き物としての強さなのだ。
アルカンヴィーニュの1期生には、元から農業関係の仕事をしていた人は、あまり居なかった。
地理の先生、数学の先生、医者、会社員、飲食店経営者、地元の名士、など、
とにかく様々な前職の経験を生かして、ワイン用ぶどうを植えに来ている人達がいた。
60歳以上の年齢でアルカンヴィーニュに来て、
俺はワイン用ぶどう園で農作業をしながら死にたいんだ!
と言ってワイン用ぶどうを植えた人も居た。
後で聞いた話では、そんな彼もちゃんと後継者は探していて、
そのワイン用ぶどう園が耕作放棄地になる事は無かったようだ。
ある授業で彼の車に乗った時、とてもおしゃれな洋楽が流れていて、私はそれをしつこく褒めていた記憶がある。
願わくば、彼の人生の最後の場所が、本当に自分のワイン用ぶどう園であっていてほしい。
バルダー果樹園がアルカンヴィーニュ1期に応募した理由は、
単純に、就活で全ての筆記試験に受かり、全ての面接で落ちていたからだ。
面接ではいつも面接官との会話に満足し、御社の話をたくさん聞けたとホクホク顔で帰ってくる私は、
一度も社員として採用される事は無かった。
私は職に困って、ワイン用ぶどうを植えようと思ったのだ。
だが、多くのアルカンヴィーニュ1期生が、
農業と関係ない前職の経験を生かして農業をするのなら、
私も、昔の私が思想家であった事を、生かそうと思う。
果樹農家が、人に果実の価値を提供してお金をもらう事で生存する、社会に属する一つの職業であるなら、
私は、人とは何か、果実とは何か、金とは何か、社会とは何か、
などなど様々な言葉の意味について、たくさん考えようと思った。
それらについて考えた量、そして人から学んだ量では、私は誰にも負ける気はない。
私はいつだって、人から何かを感じ学ぶ量を最大化するように、意識しながら生きてきたのだ。
何を学びと感じるかの範囲が、人より少し広いだけだ。
バルダー果樹園は、学びの獣である。
私の脳は一度壊してしまっているし、とっくに限界近くまで使い込まれて、大変傷んでいる。
それでも私は生きている限り、学びの量を最大化し続ける事をやめる気はない。
山形東作と言う、
井上ひさしのブンとフンに登場する登場人物は、
名前の通り盗作の天才で、古今東西の300以上の名作を巧妙に継ぎ接ぎして名作を作った。
きっと、山形東作は、
己が盗作に使用した300以上の名作の全てを、愛していたのだろう。
私の頭の中にある言葉に、私のオリジナルの言葉など一つもなく、
私の人生で拾い集めた多くの言葉が、長い時間をかけて私になっていった。
私が食べた誰かの言葉の価値を、私の頭の中の誰かの人生の為にも、
誇り続けながら、生きていきたいと思っているのだ。
先生は、偉いから教壇に立っている訳ではない。
先生はただ、先に生きただけの人だから、教壇でその個人的な人生を語るだけだ。
だがその先生の個人的な人生には、価値があるのだろう。
良い先生が、生徒の脳を刺激して自ら考えさせるような言葉を語るのであれば、
バルダー果樹園も、千曲川ワインバレーのワインを楽しむ人々に対して、
皆さんの脳を刺激するようなワインの香りを、作っていこう。
言葉だけではできない事も、きっとワインの香りであれば、実現できる。
私は語ろう。
その全ての個人的な人生の価値が、誇らしくないのかと。
私が私であるという理由だけで、その人生の価値を、傲慢に誇って見せろと。
そのように生きてしまった自分に、
大いに酒を飲ませて、大いに人生を楽しませて、労うがいい。
自分を歪めてきた今までの軌跡を、そしてこれからも歪んでいくであろう未来の軌跡を、
全て、全力で称えてやろうじゃないか。
たくさん人生を感じ、たくさん失えるなんて、なんと文化的で、贅沢な事か。
私は、お前の人生に、最高の価値を認める。
だから、それを誇って、最後まで最高の人生を生きろ。