何故ワインを売るのか。
バルダー果樹園が、
買い物という互いの合意の上で交わされる約束において大切にしている事は、
その価値と値段に納得して買う、という事だ。
小学生の私は、両親から、
「お前は中学受験をしてもいいし、小学校と同じ地域の中学校に進学してもいい。
お前の人生なのだから、お前が行きたいと思う学校に行きなさい。
ただ、仮にお前が受験しないと行けない学校に行きたいと思った時に、
急に受験勉強を始めても間に合わないから、
今から塾に通う事はオススメしよう。」と言われ、塾に通い始めた。
当時の私は、塾で出される難しい発展問題に頭を悩ます事が楽しいだけの獣だったので、
何も考えずに、偏差値表で一番上にある学校を志望校にしていた。
当時のその塾の偏差値表では、開成は二番目だった。
そんな時、開成出身の父は狡猾にも、私を開成の運動会に連れて行った。
開成の運動会は、通常の運動会のように紅白の2色に分かれて戦うのではなく、
8色に分かれてトーナメント戦をする。
8色でトーナメント戦をすれば、4色は一回戦敗退だ。
優勝できるのは学年の1/8のみで、決勝で負けた組ですら、負ける事は負けるのだ。
学年の7/8は、試合の後に各組の本陣である桟敷の前で、悔し涙を流しながら土下座して、
それを桟敷の応援団達が、称え励ますように大声で声援を送る。
「ありがと!ありがと!何色ー!」
きっと、本気で取り組んだからこそ、悔し涙が止まらないのだろう。
きっと、彼らが本気で取り組んだ事を知っているからこそ、応援団の励ましにも熱が入るのだろう。
そこから私は、誰かの個人的な人生がたくさん詰まった、本物の経験の熱さを感じてしまった。
そんな熱気にやられてしまった私は、開成への入学を希望するようになってしまったのだ。
開成の運動会は、高校3年生は高校2年生の運動会が終わってからまる一年間かけて準備をする。
その高校3年生が、自分の色の中学1年生から高校2年生までを、一か月以上指導して準備をする。
更には生徒の組織として、運動会準備委員会とか審判団とか倫理委員会とか、
それはもうたくさんの人の大量の準備の量が積み重なって、開成の運動会は形成されている。
開成の旅行は、旅行委員会が日程と行先の宿泊先を決める。
だが宿泊先以外の実際の観光プランは、各自が決める。もちろんグループを組んでの観光も自由だ。
通常の修学旅行生のように、長い列を為して同じルートを観光したりしない。
開成の校風を代表する言葉を三つ挙げるなら、
校章にもあるペンは剣より強し、自由の校風、質実剛健、であろう。
特に、自由の校風に関しては、終わっているぐらい自由であった。
開成生は自由であるが故、すごいやつはすごいが、落ちこぼれの落ちこぼれ方もすごい、
という言葉を聞いたことがある。
実際、運動会と部活が楽しい事に気づいてしまった私の成績の落ちこぼれ方は、すごかった。
そんな私が高校3年生になり、第61代赤組正会計になった。
開成学園第61代赤組正会計と、開成学園弓道同好会会長は、
世界に私一人しかいない称号である。
組の会計の仕事は、
予算を立て、それに則って組の皆からお金を集め、
それを各係が運動会の為に出費として使い、それらの出費を会計が管理し、
決算報告をして、残金を返却する、といった仕事である。
そんな私が、会計としての指針を示す為に、言った言葉がある。
「各係の人が、その出費が赤組の総合優勝に貢献する理由を説明する言葉を持っているのなら、
私はその出費を、受理しよう。
その理由の言葉を私が聞き、それがいかに赤組の総合優勝に貢献したかを、
決算の時に赤組の皆に説明して納得してもらうのが、私の会計としての責務だ。」
お金というものは、個人的な人生の一部をコストとして支払って得る、平等に大切なものだ。
だからこそ、お金のやりとりで一番大切なのは、納得してお金を払ってもらう事だ。
その為に必要なのは、お金を使う理由を語る言葉と、それに対する納得であろう。
私が商品を売るなら、私の顧客が不幸な誤解をする機会を減らしたい。
ワインの価値は、最終的に、
ワインを楽しむ顧客側の人生における体験の価値として出力されると思っている。
それなら私は、ワインの価値が何であるかを説明する言葉を、躊躇ってはならないだろう。
言葉という道具の目的は理解ではないからこそ、何かを説明しようとする言葉には意味がある。
バルダー果樹園の果実酒の価値は、
人を生きやすくするために、人が作ったものである、道具としての価値である。
人を生きやすくする、という目的を設定できる存在は、人であって自然ではない。
果実の価値を定義し、それを達成しようと足掻く者が、果樹農家であろう。
この章では、バルダー果樹園が言葉を惜しまない農家である為にも、
私がワインを売る理由を、語っておこう。
◆果樹農家としての、始まりの言葉。
アルカンヴィーニュの1期に応募して、初めて受けた授業で、
農業は、人類史で最初で最大の環境破壊だ、という言葉を聞いた。
私が当時それを聞いた時は、その言葉の意味が分からなかった。
だが、今ならわかる。農業ってのは、少しも自然じゃない人の営みだ。
農業を始めた人類が、大量の原初の自然を、人の手の加わった農地に変えたら、
それは、人類史上最大の環境破壊だろう。
そもそも、ぶどうばかりたくさん植わっている果樹園なんて、
その時点で、少しも自然な状態ではない。
人が不自然にぶどうをたくさん植えて、不自然にぶどうに害を為す虫が増えて、
人がそれらに、ぶどうの害虫という言葉のラベルを貼り付けただけだ。
そこに作物が無ければ、害虫も存在しない。
私が、二年間の農業の実地研修をしていた時の一年目に、
私と私を指導する社員の二人で、研修先の管理するりんご園を回っていて、
とても作業が追い付かず、りんご園がひどい有様になった事がある。
そこで愚かな私は、アルカンヴィーニュを卒業して農家になるか悩んでいた私を拾ってくれた当時の常務に、
「りんごに謝れ!」と言ってしまった。
もちろんバチクソに怒られて大変な事になったし、
今の私が考えても、どう考えても私が悪い事なのだが、
その一緒にりんご園を回っていた社員が、私に諭すように言った言葉がある。
「果樹農家は、果樹を愛玩動物にしているんじゃない、
果実で人を笑顔にするために、果樹を育ててるんだろう?」
この言葉が、私の果樹農家としての始まりの言葉であり、原点だったのだろう。
バルダー果樹園が、果樹園は自然ではないと語る時には、
いつも、「りんごに謝れ!」と言った昔の私を、強く後悔しているのだ。
彼が言っていた別の言葉で、「密度を減らす」、という言葉がある。
農業において100%は存在しない。
でも、失敗の密度を減らす為に何かをする事は、決して無駄じゃない。
果樹農家という生き物は、その時々で農作業の優先順位をきっちり付ける事を大事にする。
それは、農業に100%は存在しないからこそ、
今自分が何をする事が、結果的に果実の品質のパーセンテージを最大化できる行動であるか、
果樹農家は選択し続ける必要があるからだ。
彼は、農作業の休憩時間によくタバコを吸っていた。
私はタバコという趣味を嗜まないが、
休憩に入ってすぐにタバコを吸う、というのは、
自分の体に休憩時間を認識させるスイッチとして、優秀なように思えた。
だから私は、アウトドア用の椅子にこだわり、休憩時間になったらそれに座り、果樹園を眺める。
休憩というものは、休憩した方が作業効率が良いから休憩するものだ。
同じ休憩時間で、より休憩した効果を得られれば、それもまた効率が良いだろう。
◆私が果樹農家の言葉を食べて、それが私という果樹農家になった。
私のりんご園の元園主は、既に亡くなってしまったが、
彼が80歳以上の老齢の時に、私は彼に剪定を教わったりした事がある。
商機に敏感な人で、脱サラしてりんご農家として大成した人であり、
生まれる時代が違えば、彼もワイン用ぶどうを植えていたかもしれないと想像したりする。
バルダー果樹園のりんご園は研修先が管理していた成園を継承したもので、
私がこの園を初めて見た時は、本当に森のようになっていた。
だから私は、私の農家歴よりも長い樹齢のりんごの木を、たくさん切った。
元園主は、私に剪定を教える時に言っていた。
「冬に徒長枝を切れば、木を切る仕事はほとんど終わりだ。」
もちろん当時のりんご園は、実際の所とてもそうはならない状態だった。
ある時、元園主の知り合いを名乗る、隣町のりんごの組合長がやってきた。
その時に、「あいつは元々、めちゃくちゃりんごの木を切ってスカスカにするタイプだった。」
という言葉を聞いた。
私は私なりに、それらの言葉から元園主の全盛期の樹形を想像して、それを大きく参考にしつつ、
私が求める最高の香りを持つ果実を収穫できる、樹形というシステムを作ってみたのだ。
彼らの言葉が無ければ、私は今でも、りんごの樹形に悩んでいたかもしれない。
彼が80歳になっても、イカした古いダットサントラックで果樹園に来ていたのなら、
私も、80歳まで果樹園に通い続けようと思った。
井上ひさしのブンとフンという作品に登場する登場人物で、
山形東作というキャラクターがいる。
名前の通り盗作の天才で、古今東西の300以上の名作を巧妙に継ぎ接ぎして名作を作った。
きっと、山形東作は、
己が盗作に使用した300以上の名作の全てを、愛していたのだろう。
そして私もまた、山形東作なのだろう。
私はある時、私の頭の中にある言葉に、
私のオリジナルの言葉など一つもなかった事に、気が付いた。
私の人生で拾い集めた多くの言葉が、
草食動物の消化器官のように、長い時間をかけて反芻され、
その時々の個人的な人生経験とリンクするように思い出されながら、
少しづつ私になっていった。
その時々の私が、自身の生存の為に新しい認識を必要とした時に、
まだ私のものではなかったどこかの誰かの言葉を、私が道具として使う事で、
初めて私の神経が通い、私の言葉になっていった。
原初の生命が、海に溶け込んだたんぱく質を元にして、
長い年数から来る試行回数の奇跡によって生まれたように、
私は、様々な人の言葉を心のスクラップブックに集めて生きるのが趣味だった誰かの頭の中で、
人格が壊れて、様々な言葉が飛び散った頭の中の情報の海から生まれた、
人の形を真似た、人形のようなものなのだろう。
私は30代男性になって、ようやく私が生まれた瞬間を思い出した。
私ではない18歳の誰かが、
人を傷つけた事を強く後悔し、人にやさしい存在になりたい一心で、
全ての個人的な人生に対して100%の推測が可能な存在である、全知の存在を目指して、脳を壊した。
脳を壊した後の薄い意識の中で、その誰かは、
人の身では全知には至れないという事実が、とても人にやさしいという事に、大満足していた。
同時にその誰かは、そのままでは日常生活に支障が出るからと、
偽物の私を作り、人が生きやすく生きる為の知恵袋という意味合いで、私に道徳という名前を付け、
まだ何の人生経験もない私に、自分が生きやすく生き続ける事だけを目的として設定して、
満足してやりきった顔で、勝手にどこかに行ってしまった。
あいつは意地が悪いから、私が自分の人生を生きやすくするには、
全ての人を生きやすくしようと考えずにはいられない事を、知っていたのだろう。
全知以外の方法で、私がどう人にやさしくあろうと足掻くのかを、
高見の見物でもしているのだろう。
仮に、今の私が人を生きやすくする事に大成功したら、
きっとあいつは急に帰ってきて、私は俺が育てたと手柄を誇りに来るに違いない。
私というあいつは、そういうやつなんだろう。
どこかの誰かの言葉は、どこかの誰かの人生の一部でもある。
だから私はそれを大量にかき集めて、私の人生を作り出す事が出来た。
今の私は、道徳なんてカッコ悪い名前は捨てて、山形東作として生きている。
私が食べた誰かの言葉の価値を、その人生の一部の価値を、
誇り続けながら、生きていきたいと思っているのだ。
◆魔王のような、愛の言葉。
老犬になったバルダー君に、私が語った愛の言葉が、
「私はお前を、最高の家族だと認める。
だからそれを誇って、最後まで最高の人生を生きろ。」であった。
結果的に、バルダー君は私の想像の五倍以上は、最高の人生を生きてくれた。
彼が、私からの一方的な約束を履行してくれた褒美として、
私はバルダー果樹園を名乗り、バルダー君を描いたラベルをワインやシードルに張り、
彼の事を忘れないようにしてやろうと思った。
これを形容して、魔王のような愛の言葉、という表現をよくする。
バルダー君の人生の価値を認めたいから、
バルダー君の人生が幸福だったと、私は言わない。
バルダー果樹園は、「君のために。」という無責任な愛の言葉を語れない。
自分の人生に無責任な生き方は、私を私でいられなくする。
私は私一人の責任の範囲で、ただ私が愛したいからという理由で、何かを愛そう。
犬という生き物は、どこか人のような振る舞いをする時がある。
バルダー君は、非常におしゃべりな、言葉を惜しまない犬だった。
本来、生きる目的を設定されずに生まれたが故に目的を設定する事が出来る、
という能力は人固有のものであるが、
犬は、人と関わりながら長い歴史を共有した結果、
その経験によって、どことなく人らしく歪んでしまった生き物なのだろう。
犬の言葉を、人が言葉として理解できる事は、無いのだと思う。
きっとバルダー君自身も、自分が人の言葉を理解できない事ぐらい、わかっていたのだろう。
それでもバルダー君は、私に犬の言葉を話し続け、
私はバルダー君に、人の言葉を話し続けた。
人の言葉も、同じなのだろう。
100%の理解など存在しないからこそ、愚直に個人的な言葉を紡ぐだけの価値がある。
他人が観測している人生そのものの生データという、
逆立ちしても決して自分には触れ得ぬ物に、恋焦がれていなければ、
言葉という無駄に複雑で曖昧な道具を、紡ぎ続ける意味もない。
当時病弱だった私が、リハビリがてら長野の大学を卒業する為に、
「俺は教科書が読める!お前はコミュニーケションが出来る!協力してこの大学を一緒に卒業しよう!」と、
入学式の帰りの電車で約束を交わして、実際に四年間共闘し卒業してその約束を果たした、
車いじりが趣味の、茶髪で気のいい陽キャは言っていた。
人に興味を持つ事が、コミュニケーションの始まりなんだと思う、と。
◆私の中の最強は、補助輪の形をしている。
私は、ただ性能が高い、という意味合いの最強を、最強とは呼ばない。
鬼に金棒、という言葉がある。
鬼が、鬼という強い存在であったとしても、
そこに金棒を持たせた方が、より最強に近い、という話だ。
そう考えると、他の鬼に比べ圧倒的に強い最強と呼ばれる鬼も、
金棒を持っていない状態では、最強には至れていないと思う。
逆に言えば、誰が持っても最強の金棒があれば、
鬼と人のどちらが強いという議論すら、無意味になる。
道具の価値が最強という天井に届き、それ以上が存在しなければ、
人の中で、誰が頭が良いとか、誰が力強いとか、
そういう獣のような理由で人を殴ったりする必要がなくなる。
人を殴る理由が正しさなら、それを自ずから手放せる理由は、最強の価値しかない。
優れた職人が作った至高の作品も、それ単体では最強とは言えない。
その最高の価値を、誰が使っても享受できるようになって初めて、
それは最強に人にやさしい道具に至れるだろう。
この世に不幸があるのなら、
それは、チェーンソーで折り紙を折るような、目的達成効率の悪い道具の使い方だけであろう。
私が弓道を教わった先生は、弓道の「型」の目的を、
何度も的の前で「型」を取り、その膨大な反復練習の結果、
的を見なくても、「型」を取れば勝手に矢が的中する状態を目指す事だ、と言っていた。
これは、私の考える最強のイメージに対して、強く影響を与えた言葉だ。
個人が自分らしく生きるには、
誰にも外注できない考える仕事が山ほどあるのだから、
道具を使う時に考えなければならない事は、少ないに越した事はない。
それこそ補助輪のように、誰でも簡単に扱えるものが望ましい。
迷ったら何々しろ、という言葉は色々あるが、
私なりに言わせてもらえば、迷ったらたくさん迷えばいい。
それらを表す言葉として、
私の考える最強のイメージは、補助輪の形をしている、と言ったりする。
私は、最強に至れないからこそ、最強を目指す価値がある。
多くの失敗と後悔をかき集め、最強に近づこうと努力をする意味がある。
私が、果樹農家としての新たな価値を提示する事で、
長寿で有名な長野県の、やたらパワフルな老人達が、
「バルダー果樹園が何を言ってるかはわからないけど、
バルダー果樹園みたいのが居るから、この地域の未来は明るい。」
と思い、安心して最後まで最高の人生を送ってほしい。
隙あらば孫や息子夫婦の話をして、彼らの人生がより良くある事を願いながら、自分の死を見つめている。
令和の世界観で考えたら、少し時代遅れでノンデリな発言もするかもしれない。
でも、そんな老人達が安心して最後まで生きていけない社会では、
今度は現代の若者達が、自分が老人になっても最後まで長生きしたいと思えなくなる。
私は一人の大人として、
若者に、「老けて周りに迷惑をかける前に死にたい。」なんて、言わせたくない。
私は一人のカプ厨として、
「奥さんには家の事をさせてあげたいが、金がないから共働きだなぁ。」とか、
「そんなに儲からないから子供は作れないなぁ。」とか、言わせたくない。
私は一人の果樹農家として、
長野県の耕作放棄地が全部、めちゃくちゃ儲かる果樹園になれば良いと思っている。
私の中の最大最強のエゴが、私にすべての人生の目的達成効率の最大化を、目的として課す。
その無理難題が、私を生きさせる理由になっている。
親が子に、「誰が生んでくれと頼んだ!」と言われた時の、
私の個人的な経験則としてのベストアンサーは、
「私がお前の人生を観測する事を望んだのだ!」と、ガンギマリ顔で言い放つ事だろう。
誰にも迷惑をかけずに生きている人など居ない。
人生は、同意なく生を与えられるという迷惑をかけられて始まり、
育てられるという迷惑をかけて、ようやく人の形を為していく。
私が考えた、補助輪の形をしている最強に至る手段は、
果実の品質という当たり前な言葉を、当たり前ではない精度で実現する事だ。
現状の果樹農家の農産物の価値では、私の望むように世界を変えられないなら、
私がそこを目指してやろうというだけだ。
イソップ童話に、北風と太陽、という話があり、
北風と太陽が、ある旅人のマント剥がしバトルをした結果、
北風がいくら強く風を吹いても、旅人はマントをより強く着込んでしまったが、
太陽が周りを暑く照らすと、旅人はマントを自分から脱いだ、という話がある。
全ての人が、それぞれの個人的な思想で、自分なりに合理的に生きているからこそ、
人を自ずから動かせる物は、
暴力でもなく、巧妙な言葉でもなく、圧倒的な価値であろう。
長野県産の果実酒の平均的な品質の高さがすごい事になり、
長野県の傾斜地の耕作放棄地が、奪い合うように開墾されて全部果樹園になって、
それを飲んで楽しむ県外の人々も、誰も想像できないほどに自分らしく生きて、
それらのたくさんの人生一つ一つの目的達成効率が1%づつ上がり、
その一つ一つの積み重ねが、社会の中で相乗効果を生みながら車輪のように回転して、
人の人生は、ほんの少しだけハッピーになれると考える。
官民連携で地域おこし、なんて言葉が最近はある。
一昔前だったら、地元の役場と地元企業が連携などしようものなら、
癒着だと言われていたかもしれない。
だが、ネット社会の現代においては、地域全体がスルーされる可能性がある。
だから生き残りを賭けて、手を取り合うしかない。
地域そのものの価値が低いと判断されれば、地域ごと消えてゆく時代なのだ。
森のようになっていた耕作放棄地の付近の公図を調べると、元は畑や道だった事がわかる。
長野県の大学に地元就職を希望する若者が多くても、仕事が無ければ東京に行ってみるしかない。
日々の生きる目標が無くなった老人は、急に老け込んでゆく。
老人に、もう立ち止まっても良いと言うのは、もう死んでも良いと言っているのと同じだ。
家というものは、中に人が居ても居なくても頑丈な構造で作られているはずなのに、
人が住んでいない家は、何故かすぐにボロボロになってゆく。
人が形を定義したものは、物理的なものでも精神的なものでも、
人がメンテナンスしなかったら、すぐに風化して形を失うものだ。
襟を正し、自分なりに人らしくあろうと努めて生きなければ、
人は簡単に、自分という人の形を失える。
持続可能な社会への取り組み、という言葉があるが、
目の前に、持続不可能になって消えていった社会の一部が転がっている果樹農家なりに、
持続可能な社会への取り組みをするなら、
果実の価値を最高にして、それを誇る事しか出来ない。
未来の人類にとって、化石燃料という資源は枯渇するとして、
今はエンジンで動かす事が効率の良い道具も、未来では別の動力で動いているかもしれない。
果樹農家ではない誰かの個人的な人生が、きっとそれを実現するだろう。
だが、未来の人類がどんな動力を使っていようが、
エンジンのついた道具を使って、最高の果実を作る方法を愚直に追究した不器用で個人的な果樹農家達の歴史は、
未来の人類にとっても、価値のあるお土産だろう。
ダイヤルアップネットワークの接続音を聞いた事がない若人達の将来の夢に、
配信者と並んで、果樹農家がランクインするぐらい、
果樹農家という職業の価値が、高まって欲しいと思っている。
果樹農家なんてバカで不器用な仕事が憧れの職業になる社会は、
とても人らしく、文化的で、贅沢な社会であろう。
人は、人を真似て、人を学び、人になるように、
人の営みは、先人に学び、先人を超え続けてきた歴史だ。
私が、先人に学び、先人を超える事は、
去り行く先人達へのねぎらいであり、私が先人になった時の安心の為でもある。
私が老いたら、その時代を担う果樹農家達が、
私の想像もできないような、素晴らしく強く、素晴らしく人にやさしい未来を描き、
何もわからんと困った顔をしながら、死んでゆきたい。
それが、バルダー果樹園の考える最強の補助輪である。
人はもっと傲慢に、自分らしく生きてもいい、なんて言ったりもする。
自分の頭が良いと思ってそれを誇るなんて、矮小でみみっちい傲慢さだ。
何が出来るかが個性なのではなく、そのように生きてしまった人生という結果が、個性なのだろう。
自分がどうしようもないクズだとわかっていても、そんな自分でどう生きれば最大効率であるかを考える方が、
よっぽど尊大な傲慢だろう。
私が私である理由というだけで、私を誇りながら生きられる方が、
人は生きやすいだろう。
◆食べ物の価値は、食べた時喉から上がる香りである。
バルダー果樹園にとって、食べ物の価値は香りであり、
人が食べ物を食べて感じていると思っている「うまさ」は、
厳密には舌が感じる味覚ではなく、食べたものが体温で熱され、喉から上がってきて、
体の内側から、鼻が感じている香りなのだと言う。
私の農業研修時代の先輩の一人である、飲食の経験が豊富な人が言っていた。
「人によって何がうまいと感じるかは違うけれど、
誰が食べても感じるような、絶対的な「うまさ」のある商品はあると思う。」と。
現代のマーケティング論を齧っている人なら、2秒で一笑に付すような話かもしれないが、
実際私は、そういう絶対的な質の差は、存在すると思っている。
食べ物に関しては、それは食べた時に喉から上がる香りなのだと、私は思う。
この話は、私がアルカンヴィーニュの1期で聞いた、
嗅覚に関する、どこかの大学の偉い教授の授業を参考にしている。
香りには二種類の香りがあり、
一つ目の香りは、
人が自分の体の外側にある空気を、鼻から吸い込んで香る香りで、
二つ目の香りは、
自分が食べた物が体内で熱されて喉から上がってきて、体の内側から感じる香りである。
この二つ目の香りが、
人が食べ物を食べて、その食べ物らしさを感じる大きな要因である。
ワイングラスに鼻を突っ込んで香る香りは、一つ目の香りでしかない。
バルダー果樹園のワインは、一つ目の香りでなく、二つ目の香りを最大化するように作られている。
それ故、バルダー果樹園のワインはワイングラスでなくコップで飲んでもいい。
五味は、五種類しかない雑魚感覚器官だ。
私は、バカ舌という言葉が好きではないが、
その理由は、そもそも舌という感覚器官がバカだからだ。
人がオムライスを食べてオムライスだと感じるのは、オムライスの香りがするからで、
オムライスの塩味甘味酸味苦味旨味の五種類のグラフを見ても、
人はオムライスらしさを感じる事はない、と私は言う。
料理を食べて感じる「うまさ」というものは、少なくとも五味の旨味ではない。
もし人が旨味だけで、うまい料理の感動を常に得られる生き物なら、
今頃うま味調味料の味の素は、脳に刺激を与えすぎるタイプの禁止薬物殿堂入りであろう。
だが、実際に味の素単体を舐めても、そんな事は起こらない。
塩味を基調にして作られたおかずに、少し砂糖や酢を加えるだけで、
なんだか複雑な味わいになった気がしてしまう。
和風料理によく使われる、醤油+みりんの組み合わせは、まさに五味の騙しやすさを物語っている。
五種類の味覚というものは、人が食べ物を食べた時に、
実際に体験として感じる複雑な情報に比べたら、
あまりにも単純で、騙しやすい。
料理の五味なんて、最後に調味料で調整してしまえばいい。
ラーメン屋のテーブルに、塩コショウ酢などが置いてあり、
五味を好みに応じて調整できるようになっているのは、とても人にやさしい。
塩も砂糖もレモン汁も酢も味の素もインスタントコーヒーの粉をちょい混ぜるのも、
ローカルレギュレーションで禁止しなければならないほどのぶっ壊れパーツではないし、
むしろ適度に使ったら便利なアイテムでしかない。
大事なのは、食材を組み合わせて火を加えながら作る、料理の香りの方だ。
自炊経験のない人が、「うまいカレーでも作ったろう!」と意気込んでレシピを調べた時、
どうせ水を入れて煮込むのに、何故最初に具材を炒めるのかと、
疑問に思う事があるかもしれない。
私が思うに、具材を選び炒める過程で、料理の香りの大部分は形成される。
最後の味付けの調味料が何グラム違うからと言って、
そこで急に、料理を食べた時に感じる「うまさ」という、食べ物としての価値が乱高下する事はない。
風味という言葉があるが、風を舌で舐めても味はしないし、
鼻をつまんで食べた食べ物は味がわからない、という話もある。
香りまつたけ味しめじ、なんて言葉があるが、
それが本当だと仮定しても、しめじよりもまつたけの方が高級なキノコである理由を考えるなら、
食べ物の価値とは、香りなのだろう。
むしろ、きちんと炒めて具材の香りを引き出して作った料理は、
醤油やソースやコンソメのような、塩味以外の香り要素が多い調味料の比率を減らして、
塩砂糖酢のような純粋な五味のみの効果に近い、香りが少ない調味料で仕上げた方が、
結果的に、料理が変な香りになって料理が失敗する可能性が減る。
「焼きそば」という名をイメージして作った料理の味付けに、ソースが入っていないと、
食べた人の頭が混乱して、おいしく感じられないかもしれない。
ソースを入れるな、という話ではなく、
ソースだけで仕上げる予定だった料理の塩味の50%ぐらいを、塩に置き換えた方が、
頑張って炒めた具材の肉野菜の香りが引き立つ事も多い、という話だ。
慣れてくると、肉を炒める時に多めに塩コショウを振って、
料理を完成形の料理名に近づける為に行う、最後の味付けを少なめにする調整をし始める。
塩コショウを筆頭に、肉の臭み消しスパイスと塩が混ざった商品が大量に売られている理由がよくわかる。
料理の香りを原初の混沌にしない為に、塩は有用なのだ。
嗅覚は感覚の種類が多く、脳に与える情報量が多いからこそ、
同じ香りを嗅ぎ続けると、それが感覚として無臭に近づく、
という脳に対する情報量のリミッターがかかっているという話も、
この授業で聞いた。
人にとって無臭とは、その人の体臭であるから、
ワインの香りがわからなくなれば、
手の甲を嗅ぎ、自分の体臭を嗅ぐ事でリセットできる、とも言う。
人が飽きる、という現象も、この同じ香りが無臭化する流れに似ている。
人が何かに慣れて、何かを為せるようになる事と、
人が何かに飽きて、それを出来なくなる事は、
同じカテゴリの話だと考える。
私はいつも、長野の山の上の果樹園で、
ソーシャルディスタンス5反の果樹園できれいな空気を吸って生きているから、
東京の電車や駅の空気は、臭くてたまらない。
人の一人一人の体臭なんて、いくらしてもよいのだ。
果樹園で香る土や草の香りと同系統の香りで、どれも嫌ではない。
だが、体臭を隠す為の芳香剤の香りが強すぎるのだ。
ずっと嗅ぎ続ける体臭が、無臭に近づくのが嗅覚の機能だとしても、
あまりにも嗅いだ事のない香りは、私の体に染みついた香りの歴史が、
良い香りとして判断してはくれないらしい。
植物や動物からしたら、人という生き物は凄まじく臭い生き物らしい。
この言葉も、この授業で聞いた言葉だ。
体臭は、思想と似ているものがある。
思想を持たず体臭も持たない人など、そもそも存在しないのだ。
私の観測する世界には、人生によってあらゆる方向に歪まされ、何一つ同じ物はない、
個人的な人の思想が、たくさんあるだけだ。
「人の気持ち」などという、あまりに単純で画一的で、血の通っていないプラスチックのような言葉より、
「思想」という言葉の方が、よっぽど複雑で曖昧で個人的で、人らしさが匂い立つ言葉だろう。
そもそも無臭の定義である体臭が、人によって違うのだから、
人が何を良い香りと感じるかは、人によって違う。
そしてそれは、その人生が嗅いできた香りの歴史に依存する。
思想も嗅覚も、複雑で曖昧で個人的であるからこそ、そこに人生を感じられる。
それなら、それらの個人差を突き抜けた「絶対的にうまいワイン」というものは、
ワイン側が価値として定義する香りの質が、
圧倒的に高くないといけないのだろう。
とはいえ、何万円もするとんでもなく高級なワインだって、
毎日飲み続けたら、その値段分の感動を得られなくなるだろう。
ワインなんて、飽きない程度にたまに飲んで、
毎回、めっちゃ香りええやん!と感じるぐらいの方が、道具としての効率がいい。
私は昔から本を読んでいて、奮発という言葉が出てくると、少しテンションが上がったものだ。
普段は質素で簡単な食事をしていても、たまに奮発して豪華なうまい飯を食う。
そんな小さな自分へのご褒美が、人の精神には案外効果があるのだ。
その費用対効果を考えれば、奮発した飯を盛り付ける皿からこだわった方が、効率がいい。
食事という、個人的な体験の時間の価値を最大化する為の一つの道具として、
私のワインは、存在していて欲しいのだ。
◆人生一杯目のワインは、まずくて当たり前だ。
人の感覚の五味に含まれる苦みや酸味は、
動物としての人間が、腐った食べ物を食べないようにするためのセンサーとしてついている。
幼児に初めてレモン汁を舐めさせれば、しばらく泣き止まないだろう。
酒を飲んで、酸味がいいとか苦味がいいとか言う人は、
人生の経験によって、感覚を歪めているだけだ。
だが、人生が人を歪める事にこそ、価値があるのだから、
気軽にワインを試してほしいと、私は思う。
ワインは、肉体的な意味では健康に悪い。
バルダー果樹園のワインのラベルにも、それは強調して書いてある。
毒にも薬にもならない言葉よりも、毒にもなるし薬にもなる言葉が好きだ。
その言葉を聞いた時には、なんとも思わなくても、
後々の自分の人生経験とリンクして思い出された時に、道具として人を生きやすくする言葉が、
私は好きだ。
言葉が、呪いのように作用する事があっても、
人がそれを、人を生きやすくする方向に使えば良いだけだ。
酒というものが毒であるからと言って、酒に道具的価値がないとは言わせたくない。
酒を飲まなければやってられない人生を、酒を飲む事でやっていけるようになるなら、
酒という道具には、価値があるのだろう。
人という生き物は、精神的な部分の割合が大きい生き物だ。
どんなに肉体的な健康に気を使っても、精神的ストレスで体がボロボロになったりする。
ストレスは、人から考える事そのものを奪う。
人を人たらしめる理由を、奪ってゆく。
偽薬効果とか、プラシーボ効果と呼ばれるという言葉があり、
何の効果もない偽薬を薬だと思って飲めば、本物の薬を飲んだような効果が得られたりする事もある。
病は気から、なんて言葉もあるが、
本物の薬を飲む場合でも、それが今の自分にどう必要か意識して服用する事で、
薬の効果に偽薬効果を加え、さらに薬の目的達成効率を高められる。
腹を痛めて内科に行って抗生物質が渡されたり、
巻き爪を形成外科の手術で切除してもらったりする事は、
ある程度、病気の原因を直接的に解決していると言えるだろう。
だが、精神科の処方する薬は、病気の原因を直接的に解決できない。
できる事と言ったら、寝れない人を、寝る事が出来るようにする事だ。
精神科の薬というものは、精神そのものを修復しない。
他の科のように、病気の原因を直接治療する事は出来ない。
人は、たくさん食ってたくさん寝る事でしか、精神を治せない。
現代において、人の健康を定義する言葉に、
肉体的な健康だけでは健康ではなく、文化的でなければ健康ではない、とする言葉がある。
百人一首の時代の文化の担い手は有閑貴族と言い、ひまがある貴族の事を指す。
その時代の農民には、文化的な生活を送るだけの余裕すら無かったのだ。
農民を文化的にしたのは、思想ではなくエンジンのついた農機具だ。
人が文化的である為には、まずは物理的な生活の余裕が無くてはならない。
毎日ワインを飲む奴が偉い、なんて事はない。
正しいワインなどないからこそ、ワインは楽しい。
ソムリエの言う通りに食べ物とワインを合わせないといけない、なんて事はない。
ソムリエってのは、ただのワインをオススメしたいワインオタクの一種だ。
どんな趣味も、その道の早口オタクを横に置いておくと、楽しみやすい。
今のネットは、昔のネットに比べてグーグル検索が機能しづらい。
昔に比べ、ネットにあるホームページの数が増えすぎたのだ。
ググレカスという昔の2chの言葉は、昔のネットだから成立した言葉で、今は成立しないだろう。
どちらかと言えば、新しい趣味について知りたい場合は、
ツイッターでその道のオタクを一人見繕ってDMして、
ディスコードで通話して個人的な話を聞いた方が、多少は役に立つ情報が手に入る。
ワイナリーの売店の試飲コーナーでバイトしていた時、ある老婦人が、
「私は、肉料理には赤ワインを合わせなければならない、魚料理には白ワインを合わせなければならない。
そう厳しく教えられて、生きてきました。」と言っていた。
私は思わず、私がワインという趣味を始めた時、
たまたま家にあったちょうしたのさんまの蒲焼の缶詰と、たまたま家にあったワインを合わせて、
これが合うとか、これが合わないとか、自由に試したから、
私はワインが好きになったという話をした。
仮に、この世にワインという趣味が偉そうで敷居が高いと思う人が、一人でも居て、
ワインという趣味を試す機会が、一回でも失われているのなら、
それは、全てのワイン関係者の怠慢の責任であり、後悔し改善すべき事なのだろう。
バルダー果樹園は、その後悔を忘れたくない。
私は、この世のワインが全て不完全であるから、自分でワイン用ぶどうを植えた。
どんなワインにも、不完全な果実が持つ嫌な匂いを感じた。
ワインを試したけどダメだった、という人の多くは、
単純に、未熟果や腐敗果に由来する嫌な臭いにやられているだけなのだと思っている。
私から見れば、店に並ぶ大抵のりんごは、青実果だ。
この嫌な臭いを、酸化防止剤のせいにする流れもある。
だが、歴史的にワインに使われる酸化防止剤が、何故亜硫酸塩なのかと言われたら、
それが、酸化防止剤の中で特に無臭に近いからだ。
ある海外の配信者が、日本の食卓での採用率が低い食紅の良さについて、
「この食紅は、味や香りがほとんどないから、料理の色を変える為に入れやすいんだ。」と言っていた。
また、酸化防止剤を使わずに醸造中のワインが酸化すれば、
ワインビネガーのように酢酸のような匂いが増えてしまう。
ワインを試した事がない人や、現状のワインの価値に疑問を持つ人でも、
ワインを試したいと思えるような臭くないワインを作るには、
皮や種までしっかりと完成した果実と、適切な酸化防止剤の使用が必要だ。
ワインは、ほどよく酸化した方が、香りが開く。
開栓直後のワインはまだ十分に酸化していないから、香りの開き方が不十分で、
人が飲む一口目のワインは、直近に食べたものの香りに引っ張られて、感じ方が不安定だ。
だから、夕飯を食べつつ、Youtubeで自分の好きなチャンネルの動画でも見ながら、
時間をかけてゆっくりとワインを楽しみながら飲んでほしいと思う。
だが、どの程度酸化した状態が一番香りが開いているかの認識は、
その人の嗅いできた香りの歴史に比例する、極めて個人的なものだ。
だから私は、適度な酸化具合をこちらで決めず、極力酸化していないワインをビンに詰めて売る。
ワインを酸化させたいなら、開栓後に空気に触れさせて放置しておけばいい。
だが、既に酸化しすぎたワインから、後から酸化の影響を取り除く事は出来ない。
錆びて腐食してボロボロになった鉄や、燃え尽きて灰になった木が、元に戻る事はないように。
私のワインは、ワイン通をうならせる為のワインではなく、
まだワインという趣味を試した事がない人でも、ワインを試したいと思えるようなワインだ。
ワイン通はバルダー果樹園のワインを飲んではならない、という意味ではないが、
ワイン通にだけワインを売っても、私の人生の目的は達成できないと、考えている。
私の最強のイメージが補助輪なら、
私のワインは、人が自分らしく生きる為のガソリンだ。
私のワインは正しいワインではなく、人を生きやすくするような、楽しいワインでありたい。
人の歴史は、ただ人を生きやすくするためだけに、道具を作り続ける事をやめなかった。
バルダー果樹園も、その末席に加わろうと思っている。
仕事からの帰り道で、その時食べたい飯をテイクアウトしてきて、一人の部屋で食べる時、
ワインを添え、これが合うとか合わないとか、自分なりに試して、楽しむ。
「飯はコンビニで買える!」という言葉は、日々を生きる上でとても心強い言葉だ。
どんな食べ物とどんなワインが合うかなんて、
皆さん一人一人が、個人的に自由に、決めてほしい。
この食べ物とこのワインは流石に合わなかったな、という体験にだって、
その人生の一部の価値を、誇ってほしいと思う。
◆言葉ではなくワインの香りで、よい先生になろう。
新参に優しくない古参ゲーマーは、ゲームの経験量が中途半端なゲーマーだ。
自分がそのゲームを長く遊びたければ、対戦相手を減らすような行為は効率が悪い。
初心者育成において大事なのは、生徒にとっての先生を一人だけにしないことだ。
様々な考え方のたくさんの先生を用意して、
誰かと合わなくても、別の誰かに学べる逃げ道を用意する事だ。
誰かの言葉に学び、その言葉を私の言葉としてきた私の人生において、
私が言葉を食べた相手を、先生と呼ぶのであれば、
私の先生は、数えきれないほどたくさんいる。
自分にとって絶対的に正しい先生が一人しか居なければ、
その先生に否定された人は、自分を構成する言葉すら失って獣になってしまう。
私の先生は数えきれないほどたくさんいるから、私は私でいられる。
先生は、偉いから教壇に立っている訳ではない。
先生はただ、先に生きただけの人だから、教壇でその個人的な人生を語るだけだ。
だが、その先生の個人的な人生を語る言葉には、価値があるのだろう。
先生という便利な道具は、なんぼあってもいいのだろう。
千曲川ワインバレー、という言葉があり、
長野県の他のワインが盛んな地域より、個性派が多い事が売りらしい。
バルダー果樹園が好きでなくても、他にも様々なワイン生産者がたくさんいる事は、
ワインという趣味を勧める一人のオタクとして、悪くない事だと思う。
千曲川ワインバレーは、意味不明な個性派揃いの百鬼夜行とでも言われた方が、
全国的に見て、千曲川ワインバレーに興味を持つ人が増えるのではないかと考える。
長野県の寒暖差は、果実の香りに対して非常に有利だが、
平らで正方形に近い、生産効率の良い巨大な農地を確保できない事が、長野県の不利な点だ。
長野県は、りんごもぶどうも生産量が全国二位で、
青森や山梨には、生産規模ではまるで勝てない。
だからこそ長野のりんご農家は、昔からりんご農家の個性を売りにしてきた。
長野県のりんご園はどんどん伐採されて、シャインマスカットの棚になっている。
今も儲かっている長野のりんご農家は、
誰々さんのりんごだから、という理由でりんごを買ってくれる固定客が居る。
東京の人から見たら、
別に、長野のワインでも北海道のワインでもフランスのワインでも、
自分にとって価値があれば、何でも良いのだ。
ふるさと納税は、全ての都道府県が生き残りを賭けて特産品の価値で税収を奪い合う戦争だ。
長野のワインの品質が高い事が、長野のワインに興味を持ってもらえる理由になる。
全ての人生の可能性の価値が、平等に最高であるように、
全ての果樹農家が、傲慢にそれぞれの最高の品質を誇れば良いのだ。
未来の千曲川ワインバレーには、
私の想像もできないような、様々なワイン生産者が増えてほしいと思う。
いろんなやつがいる事自体が、有性生殖の生き物としての強さなのだ。
アルカンヴィーニュの1期生には、元から農業関係の仕事をしていた人は、あまり居なかった。
地理の先生、数学の先生、医者、会社員、飲食店経営者、地元の名士、など、
とにかく様々な前職の経験を生かして、ワイン用ぶどうを植えに来ている人達がいた。
60歳以上の年齢でアルカンヴィーニュに来て、
「俺はワイン用ぶどう園で農作業をしながら死にたいんだ!」
と言ってワイン用ぶどうを植えた人も居た。
後で聞いた話では、そんな彼もちゃんと後継者は探していて、
そのワイン用ぶどう園が耕作放棄地になる事は無かったようだ。
ある授業で彼の車に乗った時、とてもおしゃれな洋楽が流れていて、私はそれをしつこく褒めていた記憶がある。
願わくば、彼の人生の最後の場所が、本当に自分のワイン用ぶどう園であっていてほしい。
私がアルカンヴィーニュ1期に応募した理由は、
単純に、就活で全ての筆記試験に受かり、全ての面接で落ちていたからだ。
面接ではいつも面接官との会話に満足し、御社の話をたくさん聞けたとホクホク顔で帰ってくる私は、
一度も社員として採用される事は無かった。
私は職に困って、ワイン用ぶどうを植えようと思ったのだ。
だが、多くのアルカンヴィーニュ1期生が、
農業と関係ない前職の経験を生かして農業をするのなら、
私も、昔の私が思想家であった事を、生かそうと思う。
果樹農家が、人に果実の価値を提供してお金をもらう事で生存する、社会に属する一つの職業であるなら、
私は、人とは何か、果実とは何か、金とは何か、社会とは何か、
などなど様々な言葉の意味について、たくさん考えようと思った。
思想もまた、人を生きやすくする為に人が作った道具なら、
思想を人を生きやすくする方向に使う者が、思想家であり、
情報を扱う仕事が当たり前になった現代社会の人々は、皆当たり前に思想家なのだろう。
私は昔、塾講のバイトを一瞬だけした事があるが、
子供を子供扱い出来なかったから、私は良い先生にはなれなかった。
全ての人を一人の個人として扱う、それが私なりの経験則が導き出した礼節である。
君を何者として認識するかは、君の自己紹介の言葉を聞いてからゆっくり考える事にするよ。
例え仕事でも、人に対して真摯である事だけはやめられないのが、私だった。
その結果、私が展示会のように並べた言葉を聞いた生徒の成績だけが上がり、
ふざけてしまって私の言葉を聞けなかった生徒の成績は下がってしまった。
彼がふざけていたのも、むしろ彼なりの私への向き合い方の一つだったように思える。
子供を叱れない訳じゃない、私は相手が何者であろうが人である限り、躊躇なく叱ってやれる。
思想家という生き物は、個人的なおせっかいの言葉を紡ぎ慣れている。
でも、相手が子供でも大人でも、
誰かに思想を上書きしようとする事だけは、私が私に許していない事だった。
私のようになりなさいとは口が裂けても言えない、罪と恥と愚かしさの多い人生を送ってきた。
思想という道具をたくさん渡し、それをどう使うかは君の自由だと言って、クールに去る事しか出来ない。
だから私は、良い先生にはなれなかった。
私は昔、これから自分の人生の大きな困難に立ち向かうという理由で、
私の見える範囲から去ろうとしている一人の人に対して、
私なりに何か気の利いた言葉を贈ろうと思い、「困ったら総当たりだ!」と言った。
私は小学生の時から、確率の問題を公式を使わずにクソデカ樹形図を描いて得く事が好きだった。
確率というものは公式で算出しようが、可能性の話であり、あいまいな話でしかない。
40%の確率で発生する事だって、その後の結果として、
何かが起きたり起きなかったりすれば、そのパーセンテージに意味はなくなる。
でも、そのあいまいなものを自分なりにパーセンテージを付けて認識する事には、意味がある。
自分の人生のリアルタイムの判断の後悔を減らす為に、
40%という確率を、自分なりに体感しておく事には意味がある。
だから私は、クソデカ樹形図を描いた方が、確率というものを実感しやすくて好きだった。
困ったら総当たりをすればいい。
自分を否定し続ければ、いずれ消去法で自分が何者かがわかるようになる。
私が果樹農家になったのは、果樹農家以外の自分の人生の可能性を、
思いつく限り否定しきって、私なりに満足したからだ。
私が人に誇れるものは、失敗と後悔と反省の量だけだ。
私はいつも、人から学び、自分が感じ考えるものの量を最大化しながら生きてきた。
学問に実用性を求める姿勢は、好きじゃない。
今学んだ事が、たかだか直近10年以内に役に立つかどうかを実用性と呼ぶのなら、
実用性という言葉は、学びという行為の本懐から外れていると考えている。
私が小学生の頃に読んだ、ミヒャエルエンデのモモという本がある。
その中には時間泥棒という敵が出てきて、
人々を焦って仕事するように駆り立て、一分一秒を節約させて、
その節約した時間を奪って、世界を灰色にした。
人生は有限だから、時間というものは貴重だ。
だが、人生全体の価値を低く見積もり、目の前の時間を節約する事に集中し、
その人生でやりたかった事を出来ないのでは、何も効率が良いとは言えないだろう。
たまには、うまい酒を飲んだりたくさん寝たり遊んだりした方が、効率が良い事もある。
人の失敗を許容できる、人にやさしいシステムは、遊びが多いシステムだ。
ことわざや慣用句によく、「めぐりめぐって何々となる。」という言い回しが出てくる。
長い目、広い範囲で考えるというのも、人にやさしく生きる為の、一つの経験則なのだろう。
濡れ手で粟を、効率がいいものとして扱うような言葉は、
効率を想像する範囲が小さすぎて、目的達成効率が悪い。
思想という道具に、優劣の評価を下してもよい場面は、
特定の目的を設定して使った場合の、目的達成効率を比べる時だけだ。
私の農業研修時代の同期は、
「このへんの農家は、忙しく働きすぎてるから儲からないんだよ。」と言っていた。
今の私が考えるに、確かにそうなのだろう。
根性を出して作業して目の前の農業を終わらせる事しか出来なくて、
農業というシステム全体の価値提供効率の改善について考える余裕もない農業なんて、
めぐりめぐって、長野県の耕作放棄地が全部クソ儲かる果樹園になるような最強の補助輪には、
成り得ないのだろう。
私は、人についてたくさん考える事が、人にやさしい事なのだと思う。
最高に人にやさしい状態を確定できる存在は、100%の推測が可能な全知の存在だけだ。
全知に至れない弱い人なりに、人にやさしく生きたいなら、
正解など存在しないからこそ、自分なりに考え続けるしかないのだろう。
良い先生とは、生徒に答えを暗記させるのが上手な存在ではなく、
生徒に何かを考えさせ、自分で決めさせるきっかけをたくさん与えられる存在なのだろう。
学校でたくさんの問題を解かされる理由は、答えを暗記すれば将来の役に立つという意味ではなく、
自分で考える練習を、広く浅くしているだけだ。
それなら私は、言葉ではなくワインの香りで、よい先生になろう。
千曲川ワインバレーのワインを楽しむ人々に対して、
良い先生のように、皆さんの脳を刺激するようなワインの香りを、作っていこう。
皆さんが自分らしく生きる為に必要な、遊びとしての価値を持つワインを、作っていこう。
自分の人生から感じ考えるものである思想を、大切にできるように、
私の果実の香りが、「私は私でしかない!」と叫んでいるようなワインを、作っていこう。
そのように生きてしまった自分に、
大いに酒を飲ませて、大いに人生を楽しませて、労うがいい。
自分を歪めてきた今までの軌跡を、そしてこれからも歪んでいくであろう未来の軌跡を、
全て、全力で称えてやろうじゃないか。
たくさん人生を感じ、たくさん失えるなんて、なんと文化的で、贅沢な事か。
私は、お前の人生に、最高の価値を認める。
だから、それを誇って、最後まで最高の人生を生きろ。