バルダー果樹園がワインを売る上での、補足説明。

◆食べた時喉から上がる香りの話。


人が香りを感じる器官は鼻しかないのだが、

その鼻で感じる香りは、厳密には二種類の香りがある。


一つ目の香りは、体の外側にある空気を、鼻から吸い込んで香る香りで、

二つ目の香りは、食べ物を食べて、その食べ物が体内で体温で熱され、

その後に喉を通って上がってきた香りが、体の内側から鼻腔に到達する香りだ。


バルダー果樹園のワインの価値と定義されているものは、

二つ目の、「食べた時喉から上がる香り」であり、一つ目の香りではない。

ワインを入れたワイングラスに鼻を入れて嗅ぐ香りは、一つ目の香りである。


それ故、バルダー果樹園のワインは、

無理にワイングラスで飲む必要はなく、コップで飲んでもいい。

もちろん、ワイングラスで飲んだ方がテンションが上がるなら、それもいい。

人が明日を生きようと思える理由など、小さな事の方が効果的なのだ。


食べ物の価値は何であるかと私なりに考えた時、

食事という体験の価値を定義するものは、

「食べた時喉から上がる香り」なのだと、私は思う。


例えば、食べ物の話では舌の五味の話がよく出てくる。

だが、そもそも人が食べ物を食べた時の体験の情報量を、

たった五種類のパラメーターしかないレーダーチャートで、

表現する事が出来るのだろうか。


人がオムライスを食べて、オムライスを食べたと感じるのは、

その五味の五種類の数値が、一般的なオムライスの数値と似通っているから、

人はそれを、オムライスだと判断しているのだろうか。

私は、そうではないと思う。


りんごは、糖度が高くて甘いから、りんごなのではない。

りんごをかじった時、そのりんご特有の香りが喉から上がってくるから、

りんごはりんごなのだ。


香りを感じる鼻の感覚器官の感覚の種類の数は、五個どころではない。

バカ舌なんて言葉があるが、

そもそも舌は、五種類しか感覚がないバカ感覚器官なのだ。

鼻をつまんで食べ物を食べると、味がわからないという話もある。

舌は簡単に騙せるが、「食べた時喉から上がる香り」は、簡単には騙せない。


食事という体験から人が感じる、人を生きやすくするような道具的価値に、

もっとも強く紐づいたパラメーターは、「食べた時喉から上がる香り」だと思う。

そして同時に、人が何をおいしいと思うかは、

その人が、「食べた時喉から上がる香り」を感じてきた歴史に比例すると思っている。


私は子供の頃、何故年上の人間達が演歌を好むのか、わからなかった。

そんな私は大人になって、最新の曲の良さを知りながらも、

自分が昔レンタルCD屋で借りて聞いた曲を、何度も聞いてしまう。


私が人生で初めて、機械で音楽を聞くという体験をしたのは、

私が小学生の時の塾帰り、鉄オタの友人に、

カセットテープを再生しているウォークマンと繋がったイヤホンを耳にねじ込まれ、

電車の車内案内風にアレンジされた楽曲を聞かされた時だ。
それから私は、レンタルCD屋に通うようになった。


嗜好品とは、「文化的で、贅沢で、個人的なもの。」であろう。

私は、私なりの人というものの認識を示す時、

「複雑で、曖昧で、個人的なもの。」という表現をよくする。


人それぞれの、個人的な人生の話が無くては、

人が食事という体験から得るものの説明など、存在し得ないと思う。

その人の人生という歴史が、その人の感覚や言葉を紡ぐのだろう。

◆人生一杯目のワインは、まずくて当たり前だ。


ワインは、苦かったり、酸っぱかったりする。

赤ん坊が初めて酸っぱいレモン汁を舐めると、大抵は大泣きするだろう。
だが大人達は、この酸味がいいとかこの苦味がいいとか、ふざけた事を言い始める。


そもそも苦味や酸味は、人が腐ったものを食べない事で生き残る為のセンサーなのだ。

大人達は、それを経験により歪めて楽しんでいるだけに過ぎない。

だから、人生一杯目のワインは、まずくて当たり前だ。


バルダー果樹園のワインは、ワインという趣味を試した事がない人でも、

それを試したいと思えるだけの、価値を持つワインでありたい。


イソップ童話に「北風と太陽」という話があり、

北風と太陽が、ある旅人のマント剥がしバトルをした結果、

北風がいくら強く風を吹いても、旅人はマントをより強く着込んでしまったが、

太陽が周りを暑く照らすと、旅人はマントを自分から脱いだ、という話がある。


全ての人が、それぞれの個人的な思想で、自分なりに合理的に生きているからこそ、

人を自ずから動かせる物は、暴力でもなく、巧妙な言葉でもなく、

圧倒的な価値であろう。

それならバルダー果樹園のワインは、最高に香り高いものでなくてはならない。


人は、飽きる生き物だ。

人の嗅覚は、味覚と比べて圧倒的に大きなデータ量を扱うが故、

今まで感じていた香りを無臭と感じるように、リアルタイムに補正されていく。

だからこそ、毎日ワインを飲む必要はないと私は思う。

どんな高級ワインも、毎日飲んでいたら飽きてしまうからだ。


私は昔から本を読んでいて、奮発という言葉が出てくると少しテンションが上がったものだ。

普段は質素で簡単な食事をしていても、たまに奮発して豪華なうまい飯を食う。

そんな小さな自分へのご褒美が、人の精神には案外効果があるのだ。

その効率を考えれば、奮発した飯を盛り付ける皿からこだわった方がいい。


私がワインという趣味を始めた時、

たまたま家にあったちょうしたのさんまの蒲焼の缶詰と、たまたま家にあったワインを合わせて、

これが合うとか、これが合わないとか、自由に試したから、私はワインが好きになった。

「流石にこれは合わなかったわ!」という失敗だって、
ワインについて考える上では、楽しい経験だ。

きっと、誰かに「正しいワインはこういうものです。」と言われて私のワインが始まっていたら、
私は、自分でワイン用ぶどうを植えなかっただろうし、
そもそも、今もワインを飲んでいなかっただろう。

仮に、そんな私の人生があったのなら、その人生は、
ワインという道具から、人を生きやすくする道具としての可能性を、
これっぽっちも感じていなかっただろう。

人生一杯目のワインは、まずくて当たり前だ。
だからこそ、バルダー果樹園のワインは、

ワインを楽しむという体験を、試す価値があるのではないかと思わせるほどの、
強い香りを持っていなければならない。

◆ワインの酸化の話。

ワインは大体、「開けたてが一番おいしい」という風には作られていない。
ボトルを開けた後のワインは、少しづつワインが液面から空気に触れて、酸化していく。
ワインの香りが最も開く瞬間は、「適度に酸化した後」だと、私は思う。

だが、実際にワインをどのぐらい酸化させると一番香りが開くかという感覚は、
案外、人によって違うものだ。

そもそも、「どれぐらい酸化したか」の基準を定義するのが、また難しい。
先ほども言った通り、液面から空気に触れて酸化していくわけだから、
単純な開栓後の時間だけに比例して、ワインは酸化していく訳ではない。

例えば、バルダー果樹園は試飲会で、
赤ワインのボトルの上に、エアレーターなる道具を付けて、
そこを通したワインを提供したりする。

このエアレーターの中は、ワインが通る迷路のようになっており、
そこを通る時に、ワインが空気に触れる表面積が一気に増え、
エアレーターを通る間に一気にワインが酸化してから、
試飲会用のグラスに注がれる事になる。

これによって、それなりの固定量の酸化をしたワインが、
試飲会という、ワインを飲む時間をあまり長く取れない場でも、
提供できるようにしている。

とはいえ、エアレーターを通したワインを提供しても、私はいつも酸化の話をする。
「最終的には、ワインの酸化具合は皆さんのお好みなので、
たくさん空気に触れさせて様子を見ながら、試してみてください!」
と、何度言ったかわからないぐらい言っている。

やはり、良い酸化具合は、人によって違うものだ。
バルダー果樹園のワインを買った人の中にも、
開けて一日後に香りが良すぎて、びっくりして連絡してきた人も居れば、
開けて一週間後の香りが良すぎて、びっくりして連絡してきた人も居る。
ただ、開けたての香りが良すぎて、びっくりして連絡してきた人は、一人も見たことがない。
やはり、ワインの酸化の話は、大事な補足説明事項だと思う。

例えば、仮に生真面目な顧客が居て、
「自分なりの最高の酸化具合を調べよう!」と思い、
バルダー果樹園のワインを買ってきて開栓して、
その後、毎日少しづつワインを試して経過を見て、
最終的にワインビネガーのようになり、おいしくなくなった残りのワインがあるとする。

私はその顧客が、酸化しすぎた残りのワインを捨てたとしても、
何も文句は言わないし、むしろおいしくないワインを無理に飲む必要はないし、
むしろバルダー果樹園の商品を、それだけたくさん楽しんでくれた事に、
大きな感謝をしたいと思っている。

やはり私にとって商品の価値とは、
顧客がその商品を使用した時の、体験としての価値なのだ。
それだけ長い期間、多くの体験の量、私の商品を楽しんでもらえたのなら、
私はその事に、とても大きな感謝をしたいと思う。