◆バルダー果樹園とは何か

バルダー果樹園は、ワインの【飲んだ時に広がる香りの情報量】を最大化させたがる。
バルダー果樹園は果実に対して、まるで誰かの個人的な人生を想起させるほどに、多くの経験をさせたがる。
そしてその経験を、皮や種に書き残しておくよう、頼んでいる。
何故そうするのかと言われたら、
多くを経験し、皮や種まで情報量がたくさん記された果実の香りを感じる体験は、
人が、自分の人生から経験するものの量を、多くしてくれると思うからだ。

そしてその経験の量は、人が自分の目の前にある生きづらさに立ち向かう時に、
助けになるような道具になってくれると思っているからだ。
だからバルダー果樹園のワインは、バルダー果樹園が作る最強の道具に成り得るのだと思う。

バルダー果樹園は、

「人を生きやすくする為に、人が作ったもの」を、道具と定義する。

人生は、人が本当に何もしない場合、生きづらい事ばかりで満ちている。

なので、そういう生きづらさを一つ一つ地道に解決する為に、一つ一つ愚直に作られてきたものが、

昔から人々が作り、積み重ねて継承してきた、人にやさしい道具達である。

バルダー果樹園の言う、道具という言葉は、

物理的なものに限らず、頭の中で使う精神的な道具も、変わらず道具に含まれる。

さらに言えば、言葉の定義も、思想の選択も、認識の枠組みも、個人的な経験則も、道具である。

そのようないろいろな道具達には、【人を生きやすくするような道具的価値】がある。

私の弓道の先生は、こう言っていた。
「弓道の型という概念は、究極的に言えば、
的を狙わなくても、ただ的前で今まで練習してきた型を再現すれば、
自然と矢が的中する状態を目指すものである。」

「名前に「道」の字が入るスポーツは、精神性が重視される」という言葉がある。
私なりに解釈するなら、何度も的前に出て、同じ弓道の型を反復練習し続けると、
人の精神の中に、弓道の型という道具が出来てくるのだと思う。
使い慣れた道具は感覚的に手に馴染み、何も考えなくても自在に操作が出来るように、
反復練習によって獲得した弓道の型という精神的な道具が、作用しているのだと思う。

目の前の、物理的な意味での生きづらさを解消する為に、
弓道の型という精神的な道具を利用する事も出来る。
ネタが出なくなって煮詰まってしまった小説家が、
外を散歩して物理的な刺激を受けたら、急に新しいアイデアが頭の中でまとまったりする事もある。
ある意味、物理の問題は物理だけでは解決できず、
精神の問題は、精神だけでは解決できないのかもしれない。

ただ、そもそも煮詰まるほどたくさん考えなければ、小説家の頭の中にアイデアは降りてこないだろうし、
何度も練習しなければ、弓道の型が十分な練度を持って現実に作用する事も無いのだ。

人の人生は有限であり、それを一生という一つの有限なカートリッジと考えるなら、
人は日常生活において、一生のうちの0.0何%かわからない量の人生を、支払っていると解釈する事も出来る。
弓道の型を会得した人は、きっと人よりも多くの量の人生を、弓を引く事に費やしているだろうし、
小説家は、きっと人よりも多くの量の人生を、文章を考える事に費やしているだろう。

つまり、多くの人生を費やされ、その多くの経験によって編まれた道具は、
それなりの道具的な強さを持って、目の前にある生きづらさを解決してくれるのだ。

バルダー果樹園は、人という存在を、

【複雑で、あいまいで、個人的なもの】と定義する。

例えば、人が道具を使って自分の人生を生きやすくするように、

バルダー果樹園の顧客が、バルダー果樹園のワインを飲んで、

感動した場面があるとする。

その感動は、バルダー果樹園に対して人が感動した訳でもなく、

バルダー果樹園のワインが、人を感動させた訳でもない。

人はただ、個人的に勝手に感動するのだと思う。

それぞれの人の辿ってきた人生が違えば、

そこから導き出される価値観や思想は、違って当然だ。

それほどまでに、人というものは【複雑で、あいまいで、個人的なもの】なのだ。

それでも、それぞれの道具の中に、それぞれの人を感動させやすい要素があるとしたら、

それは、人が体験から感じる情報の量だと、私は考える。

バルダー果樹園の顧客が、バルダー果樹園のワインを飲む時、

グラスに注いだワインに、鼻を近づけて匂いを嗅がずとも、

飲んだ瞬間、自分の口内・喉・鼻腔に至るまで、勝手に広がってしまう香りがある。

その香りの広がりが人に与える感動の量を、
【飲んだ時に広がる香りの情報量】と定義する。

人はよく、何かを食べた時の感想に「味」という表現をしがちだが、

実際の所、舌が感じる味覚の感覚の種類は、五種類しかない。

人が食べ物を食べる時に、実際に人が感じる「うまい!」という感覚は、

果たして、五種類のパラメーターしかないグラフで表せるような、単純なものだろうか。

いや、そうではないだろう。

それに対して嗅覚の感覚の種類は、それはもうたくさんある。

嗅覚には、今まで自分が感覚していた香りが、入力される感覚として無臭に近づくような仕組みがある。

これは、嗅覚の入力量で脳が破壊されない為の、リミッターのようなものだ。

それぐらい、人が食べ物を食べた時に感じるものの量を考える上で、

嗅覚というものは、大変大きな割合を占めるのだ。

それなら、バルダー果樹園のワインの香りには、

まるで、誰かの個人的な人生を想起させるような、

【複雑で、あいまいで、個人的な】香りが、たくさん詰まっていて欲しい。

例えば、誰かが「こういう香りを作ります!」という想像をして、

その通りに、会心の出来で作れたワインがあるとする。

その香りには、一人分の頭で一生のうちのごく僅かな時間で想定し得る程度の量しか、

【飲んだ時に広がる香りの情報量】がなく、「この香りは何々の香りだ。」と表現しやすいワインであろう。

それは、作者と類似した感覚を持つ人々にとって優れたワインであっても、

【複雑で、あいまいで、個人的な】人々に捧げる、バルダー果樹園のワインではないのだ。

バルダー果樹園のワインの、【飲んだ時に広がる香りの情報量】を最大化したいと考えるなら、

バルダー果樹園のワインの香りは、簡単に名状できてしまうようなものであってはならない。

「この香りは何々の香りだ。」なんて言われているうちは、

バルダー果樹園のワインはまだ、最強の道具には至れていないのだ。

自分の頭の中にあるもっともらしい枠組を、現実にぐいぐいと押し付けてみても、
実際に【飲んだ時に広がる香りの情報量】が増えて、人が生きやすくなる訳ではない。
だからこそ、ワインを飲むという体験から人が感じるものの中身を、私が定義してしまっては、

人が体験から感じる情報の量を、最大化する事は出来ないのだ。

だからバルダー果樹園は、果樹農家なのである。

何一つ正確な推測が出来ない私の脆弱な思考量が、ワインの香りを定義するのではなく、

それぞれの果実が辿るであろう人生の軌跡に、

【複雑で、あいまいで、個人的な】【飲んだ時に広がる香りの情報量】の最大化を、託すのだ。

一つ例を挙げるなら、バルダー果樹園はワインに樽の香りを付ける事を極度に嫌う。
例えば、あるワインの香りがあるとして、
【飲んだ時に広がる香りの情報量】の中の20%ぐらいに、樽の香りが存在するとする。
その場合香りの20%は、樽の香りという、単純で画一的なものに塗りつぶされてしまい、
ワインの香り全体から人が感じる【複雑で、あいまいで、個人的なもの】の量を小さくしてしまい、
結果的に、【飲んだ時に広がる香りの情報量】が、小さくなってしまうのだ。

人がワインを飲む、という形式において、
最大の複雑性、最大の情報量に至れる可能性がある要素が何であるか、と考えるなら、
それは、農業そのものの大幅な改善や最適化を前提とした、
極めて完成度の高い、皮や種を含めた果実の香りだけであると思っている。

バルダー果樹園の果実は、皮や種まで香りが完成されていなければならないと思っている。
肉厚な皮を持ち、その皮や皮の裏の果肉にも、複雑な香りをたくさん持っていて、

種を割っても青い香りがなく、むしろ香ばしい香りがたくさんする果実である。

ただ単に色々なものをごちゃまぜにすれば、【飲んだ時に広がる香りの情報量】が増える、という訳でもない。
バルダー果樹園が果実の香りに、
誰かの個人的な人生を想起させるほどの香りを作ろうとしているのならば、
果実の香りに対して、一つの人の形としての完成度を求めなければならないと思っている。

先生という言葉は、先に生きただけの人と書く。先生は別に偉いから先生なのではない。
先生が話すのは、先に生きただけの人の、何も正しくない個人的な人生の経験則の話だ。
だが先生という生き物は、そうやって人に何かを考えさせるのが得意な生き物なのだ。
果樹農家は、そういう意味では果実の先生でもある。

私が幼い頃に見た映画に、サリバン先生という先生が出てくる。
サリバン先生は決して、教え方がうまかったり、相手をその気にさせるのがうまい先生ではない。
サリバン先生は作中で、なかなかに押しつけがましい教え方をするのだが、
私が思うに、サリバン先生が押しつけがましく教えようとしていた内容は、
どちらかというと、人が自分で何かを考える為に必要な最低限の材料だったように思える。

サリバン先生は、決して正しい先生などではなかったと思うが、
どんな状況でも話し合いを諦めないサリバン先生は、
私なりに言うなら、自分なりに先生として少しでもマシに生きようと足掻いていた者なのだろうと思う。
先生であろうとして、人を生きやすくしようとして費やした人生を、私は高く評価したいと思う。

先生は結果的に、人の心の中に、自分の人生の役に立つ何かを与えてやらねばならない。
だがそれは、人自身が自ら考えて掴み取るものであって、
ソクラテスの問答法あるいは助産法と呼ばれるもののように、
先生という生き物は、ただ目の前の人が自ら考え選択する事を補助しているだけで、
先生自身が、普遍的な人の人生の正解を保有しているわけではない。

先生という生き物が、正解を教えてくれる装置ではないのと同じように、
果樹農家は果実の先生であり、果実に正解の香りを押し付けたりしない。
【複雑で、あいまいで、個人的なもの】に、正解などありはしないのだ。
何より前に言った通り、人が簡単に名状できてしまうような香りなど、
人を感動させられるような材料を十二分に持った、ワインの香りではないのだ。

だから果樹農家は、果実に対して多くを体験し自ら考えさせるように求めている。
果実に対して、まるで人の人生を想起させるほどの多くの経験をさせて、
その果実が経験した【複雑で、あいまいで、個人的なもの】を、
皮や種に至るまで、果実の全て対して、
【飲んだ時に広がる香りの情報量】として書き残しておくよう、頼んでいるのだ。

阿部公房の箱男という作品に、
常に段ボール箱を被った状態で生活している奇怪な浮浪者が登場し、
彼らは、段ボール箱の内側にいつも落書きをしていて、
何故か、落書きをする為の余白が無くなる事はないらしい。

特に、果実の皮や皮のすぐ裏の果肉に、複雑な香りがたくさん含まれているのは、
果実そのものが、まるで箱男のように、
己の経験やふと考えた事を、内側から落書きして続けているからなのかもしれない。
そうした【複雑で、あいまいで、個人的なもの】の蓄積が、
まるで人生を想起させるほどの、【飲んだ時に広がる香りの情報量】を作り出すのだ。

例えば、バルダー果樹園の農業は、日当たり風通しを非常に重視する。

収穫前の果実の皮に、しっかりと日が当たり風が撫ぜるだけでも、

その刺激は確実に、果実の香りの量を、より多くより複雑にしてくれる。
それらの農業のより詳しい話は、農業についてページで説明するものとする。

ワイン生産者は、六次産業をする者として扱われたりする。

一次産業である農業、二次産業である醸造、三次産業である販売、

その全てをするから、六次産業という訳だ。


それなら、バルダー果樹園が顧客に提供する、

バルダー果樹園のワインの、【人を生きやすくするような道具的価値】の全ては、

一次産業である農業で、作られるべきだろう。

そして、先ほどまで話してきたような内容が、

バルダー果樹園にとっての、よい農業と言えるだろう。

バルダー果樹園にとって、よい醸造とは、

最高の果実の香りを、できるだけロス無くワインという形に落とし込むような醸造だ。

醸造でワインの価値を作るのではなく、醸造で果実の価値を損なわないようにする事だ。

バルダー果樹園にとって、よい販売とは、

顧客から最も遠い場所にあり、同時に顧客が体験するワインの価値に最も近い要素である農業を、

しっかりと顧客に説明し、よく考えてその価値に納得して、ワインを買ってもらうような販売である。

私の精神科の最初の主治医が言っていた。
「精神病と、病的ではあるが病気ではないものを分けるものは、
日常生活に支障があるかどうか、という点だけである。
そして精神病を治すには、人はゆっくり休んで健やかに眠るしかない。
だから精神科は、人がゆっくり休んで健やかに眠れるようになる薬を処方する、
精神科の薬は、内科の薬と違って根本治療は出来ない。」

私なりに大変大雑把な解釈をするなら、人の生活を生きづらくするものが、病気なのだ。
そして精神の健康という、人の日常生活の効率を上げたり下げたりする道具の価値を見出した者達が、
医学の歴史の中に、精神科という概念を新たに作ったのだと思う。
現代の医学ですら、精神病が何なのかよくわからないまま、対処療法を繰り返している。
ただそれでも、精神の健康に由来する生きづらさが、非常にあいまいで難しい話だからと言って、
人が白旗を上げる気はまるでない、という訳だ。

メンヘラなんて言葉があるが、人はどいつもこいつも大なり小なりメンヘラであろうし、
あくまで、人から見て人のように振舞える者が健常者である、というのが、
へたくそな健常者のふりをしながら生きてきた私の、現時点での結論である。
リハビリや社会復帰という言葉の目指す先は、きちんと人の前で人らしく振舞える状態を指すのであろう。

バルダー果樹園のワインも、精神科とベクトルは同じくするものだと思う。
人と酒の歴史的な付き合いは長いものの、
もちろん酒は、薬のふりが出来るほど健康的なものではないとは言っておく。
なんなら酒は、肉体的な健康にはちゃんと悪いと酒を売る者として明言しておきたい。
ただ、精神科の薬だって大概副作用がいっぱいだけど、
これがこの世になかったら、生きられていない人もいるわけだ。

副作用、なんて言葉があるが、
そもそも化学という学問が、自然界の物質に人が名前を付けて枠組みを付ける事で、
自然界の物質の性質を読み解き、人の為に活用しようとする試みの事であるのなら、
化学物質とは全て、元を正せば自然界の物質の事であり、
別に人間の都合で作られていないものを、人が設定した目的に対して強引に使っているだけなのだ。
つまり、化学の対象が自然界の物質である以上、人に対する副作用なんてものはあって当然なのである。

最近市販されている睡眠改善薬の成分に、元は鼻炎薬の成分と同じものがあり、
元々鼻炎薬の眠くなる副作用だったものを、睡眠改善薬の主作用として利用していたりする。
ワインは発酵食品だが、そもそも発酵と腐敗を分けるものは、
それが人にとって有益かどうかの違いだけだ。
人生において人の認識する世界というやつは、あくまで人の都合で測られているものばかりだ。

人が、物心つく前のとても幼い頃の事を覚えていないのは、
人の認識そのものが、弓道の型のように経験によって後天的に獲得されるものだからだろう。
そう考えるとなんだか、人の精神そのものが、
人が何かを感じながら生きていく中で頭の中に勝手に編まれてしまう道具、であるようにも思える。
きっとそれは、人を生きやすくする為に人が作ったものである道具でありながら、
同時に限りなく人そのものに近しい、【複雑で、あいまいで、個人的なもの】とも言えるだろう。

仮にそうなら、人の精神というものは、
最も人に近く、最も情報量の多い、最も強く人を生きやすくできる最強の道具なのかもしれない。
それならば、人が人を生きやすくする為に精神の健康の価値を重んじる事は、
人と人との関わりの中で、巡り巡って相乗効果を発生させつつ、
【人を生きやすくするような道具的価値】が生まれていく、効率的なシステムのようにも思える。

例えば、これを読んでいる皆さんが仕事から帰ってきて、一人の部屋で晩飯を食べる時に、
バルダー果樹園のワインが添えられていて、それをゆっくりと時間をかけて食べながら飲む場面を想像する。
その時に、ワインからたくさんの香りが広がり、そこから色々な事を感じ考えたりする。
そうしてたくさんのものが編み込まれた皆さんの精神というやつが、
皆さんが観測している人生の明日を、より効率的にマシなものにするよう助けてくれるだろう。
まるで、バルダー果樹園のワインは、
正解を教えてはくれないが自分で考えるきっかけをたくさん与えてくれる先生のようである。

どうせお金を出してワインを買うなら、

そのワインを、値段分かそれ以上に効率的に楽しんでほしいと思う。
それなら、一本のワインからより多くの感動がある方が、
効率的な買い物が出来ていると言えるのではないだろうか。

バルダー果樹園は、バルダー果樹園のワインが持つ、
【複雑で、あいまいで、個人的な】【飲んだ時に広がる香りの情報量】を、

バルダー果樹園のワインの【人を生きやすくするような道具的価値】である品質と定義し、

その品質の量に比例した基本価格を、各ワインに設定して販売する。

その収入により、バルダー果樹園は毎年継続してワインを作り続け、

さらに最強に人を生きやすくできるような道具を、作り続けていく。