◆バルダー果樹園とは何か
バルダー果樹園は、
「人を生きやすくする為に、人が作ったもの」を、道具と定義する。
人が人生の中で、何かしらのやりたい事を目的として設定した時に、
その目的達成を助けるように使われるものが、いろいろな道具達である。
バルダー果樹園の言う、道具という言葉は、
物理的なものに限らず、頭の中で使う精神的な道具も、変わらず道具に含まれる。
言葉の定義も、思想の選択も、認識の枠組みも、個人的な経験則も、道具である。
ある意味人生とは、
自身の肉体や精神を道具として使いつつ、その使い方をより最適化していく事で、
後天的に自ら定めるであろう人生の目的を達成しようとしている過程の連続、
と表現する事もできると思う。
それを助ける存在が、いろいろな道具達というわけである。
そのようないろいろな道具達には、【人を生きやすくするような道具的価値】がある。
バルダー果樹園のワインは、バルダー果樹園が作る最強の道具でなければならない。
バルダー果樹園は、人という存在を、
【複雑で、あいまいで、個人的なもの】と定義する。
例えば、人が道具を使って自分の人生を生きやすくするように、
バルダー果樹園の顧客が、バルダー果樹園のワインを飲んで、
感動した場面があるとする。
その感動は、バルダー果樹園に対して人が感動した訳でもなく、
バルダー果樹園のワインが、人を感動させた訳でもない。
人はただ、個人的に勝手に感動するのだと思う。
それぞれの人の辿ってきた人生が違えば、
そこから導き出される価値観や思想は、違って当然だ。
それほどまでに、人というものは【複雑で、あいまいで、個人的なもの】なのだ。
それでも、それぞれの道具の中に、それぞれの人を感動させやすい要素があるとしたら、
それは、人が体験から感じる情報の量だと、私は考える。
バルダー果樹園の顧客が、バルダー果樹園のワインを飲む時、
グラスに注いだワインに、鼻を近づけて匂いを嗅がずとも、
飲んだ瞬間、自分の口内・喉・鼻腔に至るまで、勝手に広がってしまう香りがある。
その香りの広がりが人に与える感動の量を、
【飲んだ時に広がる香りの情報量】と定義する。
人はよく、何かを食べた時の感想に「味」という表現をしがちだが、
実際の所、舌が感じる味覚の感覚の種類は、五種類しかない。
人が食べ物を食べる時に、実際に人が感じる「うまい!」という感覚は、
果たして、五種類のパラメーターしかないグラフで表せるような、単純なものだろうか。
いや、そうではないだろう。
それに対して嗅覚の感覚の種類は、それはもうたくさんある。
嗅覚には、今まで自分が感覚していた香りが、入力される感覚として無臭に近づくような仕組みがある。
これは、嗅覚の入力量で脳が破壊されない為の、リミッターのようなものだ。
それぐらい、人が食べ物を食べた時に感じるものの量を考える上で、
嗅覚というものは、大変大きな割合を占めるのだ。
人の頭の中には、
誰かの人生という刺激から、人が勝手に読み取ったと思い込んでしまう認識のような、
人が人を真似たり学んだりする体験から、人が勝手に会得してしまう感覚のような、
【複雑で、あいまいで、個人的なもの】が、たくさんある。
それらはまるで、誰かの個人的な人生を想起させるような、人の形をしている。
【複雑で、あいまいで、個人的なもの】がたくさんある事は、
それぞれの人の目の前にある、このクソッタレな人生を、
少しでもマシにする方法を考える時の、力になってくれると私は思う。
それはきっと、【人を生きやすくするような道具的価値】を持つだろう。
全人類を必ず生きやすくするような道具は、
今までもこれからも、きっと存在しないのだろう。
だからこそ人は、【複雑で、あいまいで、個人的な】道具を、
たくさん作り、残し、継承し、改善していく事で、
【人を生きやすくするような道具的価値】を、増やしてきたのだと思う。
それなら、バルダー果樹園のワインの香りには、
まるで、誰かの個人的な人生を想起させるような、
【複雑で、あいまいで、個人的な】香りが、たくさん詰まっていて欲しい。
例えば、誰かが「こういう香りを作ります!」という想像をして、
その通りに、会心の出来で作れたワインがあるとする。
その香りには、一人分の頭で一生のうちのごく僅かな時間で想定し得る程度の量しか、
【飲んだ時に広がる香りの情報量】がなく、「この香りは何々の香りだ。」と表現しやすいワインであろう。
それは、作者と類似した感覚を持つ人々にとって優れたワインであっても、
【複雑で、あいまいで、個人的な】人々に捧げる、バルダー果樹園のワインではないのだ。
バルダー果樹園のワインの、【飲んだ時に広がる香りの情報量】を最大化したいと考えるなら、
バルダー果樹園のワインの香りは、簡単に名状できてしまうようなものであってはならない。
「この香りは何々の香りだ。」なんて言われているうちは、
バルダー果樹園のワインはまだ、最強の道具には至れていないのだ。
自分の頭の中にあるもっともらしい枠組を、現実にぐいぐいと押し付けてみても、
実際に【飲んだ時に広がる香りの情報量】が増えて、人が生きやすくなる訳ではない。
だからこそ、ワインを飲むという体験から人が感じるものの中身を、私が定義してしまっては、
人が体験から感じる情報の量を、最大化する事は出来ないのだ。
だからバルダー果樹園は、果樹農家なのである。
何一つ正確な推測が出来ない私の脆弱な思考量が、ワインの香りを定義するのではなく、
それぞれの果実が辿るであろう人生の軌跡に、
【複雑で、あいまいで、個人的な】【飲んだ時に広がる香りの情報量】の最大化を、託すのだ。
先生という言葉は、先に生きただけの人と書く。先生は別に偉いから先生なのではない。
先生が話すのは、先に生きただけの人の、何も正しくない個人的な人生の経験則の話だ。
だが先生という生き物は、そうやって人に何かを考えさせるのが得意な生き物なのだ。
果樹農家は、そういう意味では果実の先生でもある。
果樹農家は果実に対して、多くを体験し自ら考えさせるように求めている。
果実に対して、まるで人の人生を想起させるほどの多くの経験をさせて、
その果実が経験した【複雑で、あいまいで、個人的なもの】を、
皮や種に至るまで、果実の全て対して、
【飲んだ時に広がる香りの情報量】として書き残しておくよう、頼んでいるのだ。
バルダー果樹園の果実は、皮や種まで香りが完成されていていなければならない。
肉厚な皮を持ち、その皮や皮の裏の果肉にも、複雑な香りをたくさん持っていて、
種を割っても青い香りがなく、むしろ香ばしい香りがたくさんする果実である。
阿部公房の箱男という作品に、
常に段ボール箱を被った状態で生活している奇怪な浮浪者が登場し、
彼らは、段ボール箱の内側にいつも落書きをしていて、
何故か、落書きをする為の余白が無くなる事はないらしい。
特に、果実の皮や皮のすぐ裏の果肉に、複雑な香りがたくさん含まれているのは、
果実そのものが、まるで箱男のように、
己の経験やふと考えた事を、内側から落書きして続けているからなのかもしれない。
そうした【複雑で、あいまいで、個人的なもの】の蓄積が、
まるで人生を想起させるほどの、【飲んだ時に広がる香りの情報量】を作り出すのだ。
例えば、バルダー果樹園の農業は、日当たり風通しを非常に重視する。
収穫前の果実の皮に、しっかりと日が当たり風が撫ぜるだけでも、
その刺激は確実に、果実の香りの量を、より多くより複雑にしてくれる。
ワイン生産者は、六次産業をする者として扱われたりする。
一次産業である農業、二次産業である醸造、三次産業である販売、
その全てをするから、六次産業という訳だ。
それなら、バルダー果樹園が顧客に提供する、
バルダー果樹園のワインの、【人を生きやすくするような道具的価値】の全ては、
一次産業である農業で、作られるべきだろう。
そして、先ほどまで話してきたような内容が、
バルダー果樹園にとっての、よい農業と言えるだろう。
バルダー果樹園にとって、よい醸造とは、
最高の果実の香りを、できるだけロス無くワインという形に落とし込むような醸造だ。
醸造でワインの価値を作るのではなく、醸造で果実の価値を損なわないようにする事だ。
バルダー果樹園にとって醸造は、0点を100点にする魔法ではなく、
100点を99点までのロスに抑えながらワインという形にしようとする、愚直な技術だ。
バルダー果樹園にとって、よい販売とは、
顧客から最も遠い場所にあり、同時に顧客が体験するワインの価値に最も近い要素である農業を、
しっかりと顧客に説明し、よく考えてその価値に納得して、ワインを買ってもらうような販売である。
バルダー果樹園は、
バルダー果樹園のワインが持つ、【複雑で、あいまいで、個人的な】【飲んだ時に広がる香りの情報量】を、
バルダー果樹園のワインの【人を生きやすくするような道具的価値】である品質と定義し、
その品質の量に比例した基本価格を、各ワインに設定して販売する。
その収入により、バルダー果樹園は毎年継続してワインを作り続け、
さらに最強に人を生きやすくできるような道具を、作り続けていく。
