これから農業の話をしよう。

このタイトルは、
ハーバード白熱教室の、「これから正義の話をしよう。」
という呼びかけのパロディである。

私は、よくハーバード白熱教室というテレビ番組の話をする。

ハーバード白熱教室は、高校でやる倫理の授業の内容、思想家の歴史を学ぶ授業であるが、

まずサンデル教授は、「これから正義の話をしよう。」と呼びかけ、

正義大好きな正義厨どもを、教室に呼び込む。

 

そして第一回目の授業で、ネットでも有名なトロッコ問題の話をして、

他人に適応できる正義、普遍的正義の存在を否定する。

トロッコ問題は、設問としてはカスの設問であり、答えのない問題だ。

学校の道徳の授業が、具体的な答えのない釈然としない終わり方をするのと同じだ。

さながら正義厨殺戮会場である、きっとサンデル教授は壇上でさぞ気持ちよくなっていた事だろう。

 

その後、二回目以降の授業では思想家の歴史を丁寧に学び、
最終回の授業では、君達の個人的正義を聞こう、と言って生徒にマイクを向ける。

普遍的正義などないからこそ、個人的正義を重んじる。
それが、ハーバード白熱教室の一貫したテーマである。

同時にそれは、人にやさしくある為のスタートラインを示す言葉だと思う。

私が農業研修中に行った講習会の一つで、県の果樹試験場の偉い先生から聞いた言葉を思い出す。

農業研究者と農家は違う。

農業研究者は、どんな農地でも出来る農法を考えて普及させるのが仕事だ。

だが、農家は自分の農地で最強であれば、それでいい。

だから、君が農家として最強になる方法は、農業研究者の私には決められない、と。

講習会の先生が、どれだけ優秀で学があっても、
全ての果樹園に適応できる完全に普遍的な農法というものは、存在しないのだろう。
人の歴史がどれだけ続いて、農業の技術がどれだけ革新的なものに変わろうが、
普遍的に正しい農業というものは、いつだって存在しないのだろう。
そこにあるのは、個人的に定義した農産物の価値を、最大効率で提供する事を目指す、
たくさんの個人的な農業だけだろう。

この章では、より具体的で専門的な農業の話を、語っていこうと思う。
ただその前に一つ、言っておかねばならない言葉があるとすれば、
正しい農業など存在しないからこそ、私は私の個人的な農業を説明する言葉を惜しまない。
という補足説明の言葉であろう。

◆美的統合の否定。
私の農業研修の始まりは、アルカンヴィーニュの一期で、
その後二年間農業研修期間で実地研修をして、
その後就農し、自分の果樹園でもたくさん実験を繰り返して、今に至る。

私がアルカンヴィーニュで学んでいた頃は、私自身に農業の経験が無かったのもあり、
正直、授業の内容はよくわかっていなかった。
私は落ちこぼれであり、授業の内容を聞いては居たが、
その度に、「自分の果樹園を教科書にしないと、わからないと思う。」と言い訳をしていた。

アルカンヴィーニュの栽培の授業の最後の講義で、
栽培を教えていた先生は、授業の内容がよくわからなかった落ちこぼれに向けて、ある言葉を贈った。
「何もわからなければ、まずは美的統合をやってみなさい。」と。

美的統合というのは、人が見てキレイな果樹園に良い果実が取れます、という思想だ。
要は、最初は自分なりにキレイな果樹園を作ってみなさい、という意味だ。
もちろん、彼が今まで教えてきた授業の内容は、美的統合などとは程遠い、
より果樹の基礎的な生理生態に即した、きちんとした果樹栽培の話だ。
なので、彼は美的統合が良いとは言っていない。

ただ、とりあえずやってみろ、という意味合いだったのだと思う。
実際、私は農業の実地研修が始まった時、美的統合をやってみて、
初収穫を待たず三か月ほどで、美的統合では良い果実が取れない事を実感した。

だが、この経験があって初めて、
私は、自分で果実の価値を定義しなければならないと感じる事が出来た。
就農後の私が果樹園に籠り、自分の納得の行く品質の果樹栽培システムを作り上げるまで、
ひたすら試行錯誤の日々を過ごせたのも、
この美的統合を試し、美的統合を否定し、自分なりの価値の定義が必要になった、
という経験が大きかっただろう。

よい先生が、生徒に自ら考えさせるような言葉を語る存在なのだとしたら、
「何もわからなければ、まずは美的統合をやってみなさい。」という言葉は、
よい先生の言葉であっただろう。

◆最高の果実。

バルダー果樹園が目指すワイン用ぶどうは、

小粒で、皮が厚く、種まで完成しているワイン用ぶどうだ。

香りの高いぶどうを作ろうと思うと、自然と果樹が種に栄養を送る状態を作るので、

結果的に皮が厚くなり、ぶどうの種を割った時に、ナッツのような芳醇な香りがする。

バルダー果樹園は、皮を使わずに醸造する白ワイン用の品種は作らない。

 

りんごにおいても、りんごの香りは皮の付近に集中している。

丸いりんごをそのまま外側から齧ると、りんごの香りがムワッと感じられるが、

きれいに8等分にして、かわいいうさぎちゃんにすると案外香りが感じられないのは、

りんごの香りの所在が、皮の付近に偏っている事が原因である。

 

シードル用りんごもまた、小玉で皮が厚く、

ジュースの状態にしても、その品種の香りが強く主張するようなりんごを目指している。

大玉のりんごをジュースにすると、皮の付近の香りが濃い部分の比率が低く、

甘いだけで香りが薄いものになってしまう。

 

人もまた、自分が何者であるかを示す皮を、

その人生において、紡ぎ続けている存在だ。

人が生きていれば、何かを失い続ける。だがその皮についた傷跡が、

その人生を、言葉よりも雄弁に語る事だろう。

 

果実の果実らしい香りが皮の付近にあるように、

人の人らしい思想も、自分が認識している自分という皮の付近にある。

私は、全ての果実の、個々の果実らしさ、人という生き物の、それぞれの人らしさ、

そういったものに、最高の価値を認めながら、

果樹農家として生きていたいと思っている。

◆果実の品質を高める為の、二つの要素。

果実の品質を高めるために大事な要素は二つあり、

一つ目は、樹勢を弱める事、

二つ目は、日当たり風通しを良くすることだ。

◆樹勢を弱める事。

果樹とは、甘い果実を付け、それを動物に食べさせ、その動物が移動した先でフンと共に種が遠隔地に移動する、

といった戦略を取る植物である。

果樹にとって、人が食べる果肉に意味はなく、大事なのは種が遠隔地に運ばれる事だ。

他の樹では、軽い種をたくさん作り、風の力で種を飛ばそうとするものもいる。

 

果樹の人生の目的は種の繁栄であり、

人と違って果樹は、自分の意志でそれを上書きする事が出来ない。

果樹は、種の繁栄の為に選択できる、二つの選択肢を持っている。

自身が最大最強の果樹になる事を目指す事で、種の繁栄に貢献するか、

自身の生存を諦めて種に栄養を送る事で、子孫に賭ける事で、種の繁栄に貢献するか。

 

樹勢を弱らせる、という言葉があり、

果樹に自らの生を諦めさせ、種に栄養を送るように誘導するような、果樹農家の操作の事を指す。
果樹の樹勢を弱らせる事で、果樹が果実を完成させようとして、果実の香りが増してくる。

りんごとぶどうで言えば、ぶどうの方が樹勢が強くなりやすい。
りんごは誇り高い武士のようであり、
果樹農家が樹勢を弱める操作をすると、
早々に見切りを付けて自ら死に向かいたがる傾向がある。
ぶどうは、さながらアニメの主人公のように、
不屈の意志で、自分が大きく成長しようとする事をやめづらい。

見た目からしても、りんごは木に近く、ぶどうは蔦に近い。
ぶどうは特に、樹勢を弱める操作をたくさんする必要がある。

樹勢について考える上で大事な要素は、

一つ目は、果樹に接続された種の量が多いと樹勢が弱まる事と、

二つ目は、根から吸い上げたものの量を、地面より上の芽数で割り算して、樹勢の強さが決まる事だ。

◆果樹に接続された種の量について。

巨大なりんごの木に、たった一つだけ付けたりんごを、

果樹は完成させようとしない。

自分がより大きなりんごの木になる方に注力する。
たった果実一つ分の、果樹に接続された種に注力するよりも、
巨大な自身が、より巨大になり、長生きする方に注力した方が、
りんごという種の繁栄への貢献度の期待値は、高いと判断するのだ。

果樹に果実がたくさんついていて、種が多く接続されている方が、樹勢は弱まる。

果樹に種がたくさん接続されていれば、

果樹にとっても、子孫に託す選択をした場合の、種の繁栄に対する貢献度の期待値は、高まるのだ。

自身がデカくなる事に注力するよりも、種を完成させる事に注力した方が、種の繁栄においてお得だ!
と果樹に思わせるような状況の一つが、
単純に、果樹に種がたくさん接続されている状態なのだ。

果実の品質を上げようとした結果、収穫量が下がってしまう事を受け入れる、

という判断は出来るが、

収穫量を下げる事で果実の品質を上げる、という認識は、

私からしたら、目的と手段の関係性が歪になってしまっているように思える。

 

果実の品質を上げようとした結果、果実の糖度が上がる事はあるが、

糖度の高い果実を目指す事は、あまり得策ではないと考える。

仮に、果実の価値が糖度であるなら、

砂糖が、この世で最も果実らしい果実になってしまう。

 

りんごと同じ糖度の砂糖水を含ませた、りんごのような形の食用スポンジと、

果樹農家が作るりんごの何が違うかと言われたら、

りんごを食べた時に、りんごの香りがすることだ。

◆果樹の地面より下の部分と上の部分での、綱引きについて。

果樹の樹勢について考える時、

地面より下の根から吸い上げたものの量を、地面より上の芽の数で割り算する事で、

一つ一つの芽から、どれほど大きく枝が伸びようとするかの勢いがわかる。

 

一つの芽から一年で伸びる枝の長さが長すぎる状態は、

樹勢が強すぎて、果樹が果実を完成させようとしないので、果実の品質が落ちる。

果樹に果実の種が接続されている夏季に、伸びすぎた枝の先を切れば、

その年の収穫する果実に、ダイレクトに樹勢の反動が来て、品質が落ちる。

果樹農家は、そもそもそんなに枝が伸びないほど樹勢を弱められる樹形を、考えなければならない。

 

仮に、根から吸い上げるものの量が同じだとしても、

果樹に刃を入れて芽数を減らすと、割り算の分母が減っていくので、

結果的に同じように、樹勢は強まるのだ。

 

土壌中の養分が多かったり、根の量がそもそも多かったりすると

樹勢は強くなり、果樹全体の枝がたくさん伸びて大きな果樹になろうとする。

矮化して根の範囲を制限していないりんごの普通樹は、

毎年枝の先を伸ばして樹体を大きくして、根の数に比例して芽の数を増やしていかないと、

樹勢が弱まらない。

 

果樹は、人が食べておいしい果実を付けたいなんて思っていない。

果樹の品種と呼ばれるものも、人にとって都合がいいものを人が選び、接ぎ木で継承してきたものだ。

果樹という言葉自体が、人が後付けで作った認識の枠組みだ。

果樹そのものがおいしい果実を付けようと思っているという言葉は、
私にとっては、果樹の生き様を無視してこちらの都合を押し付ける、
とんでもないサイコな言葉に聞こえてしまう。
果樹農家は果樹をいじめて、樹勢を弱め、人にとって価値のある果実を収穫する。
せめて拳を振り上げる理由ぐらいは、自分の責任にしておきたいものだ。

果実に行く栄養の量が増えれば、香り高い果実になる訳ではない。

糖度が高い果実を作れば、香り高い果実になる訳ではない。

樹勢の強い栄養を果実に強引に送らせて作った、

糖度が高くて香りのない果実は、私はあまり好きじゃない。

樹勢を弱め、果樹が果実を完成させるように誘導する事で、

果実に行く栄養の質が上がり、果実の完成度が上がり、香りが良くなるのだ。

◆樹勢をコントロールする事は、難しい。
私がバイトしていたワイナリーの元工場長は、博士であり、

自分の研究のテーマを、樹勢をコントロールする事だと言っていた。

私はこの時、初めて樹勢という言葉を聞いた。

同時に彼は、樹勢をコントロールする事は難しい、と言っていた。

 

後の実地研修で、農協や県の農業機関の講習会をたくさん受けると、

樹勢という言葉は、当たり前に出てきたし、

もう少し、簡単で単純な概念として紹介されていた。

 

その時私は、彼の言葉を思い出し、

樹勢をコントロールして品質の高い果実を得るという事は、

もっと複雑で難しい物なのではないかと思った。

そして就農してからずっと、

自分の果樹園で実験したり、椅子に座って果樹を見ながら、ずっと考えたりしていた。

 

その結果が、今の私が語る、思想じみた樹勢の概念である。

樹勢をコントロールするのは難しいと、博士が言っていたんだ。

私がいくら難しく考えても、それは果実の品質を高める道具としての価値があるだろう。

この言葉を聞けた事に、私は今も感謝している。

 

難しいものを難しいものとして考えた方が、価値が高められる事もある。
人生も、思想も、人の嗅覚も、果実の香りも、複雑で曖昧であるから、個人的なものを表現できる。

考える事に価値がないと思い込む事の方が、不幸な事柄であろう。

◆日当たり風通しの話。

バルダー果樹園は、ワイン用ぶどうの収穫の前に葉摘みという作業を行う。

ワイン用ぶどうの周辺の葉を摘み、果実の日当たり風通しを良くするような行為の事だ。

葉摘みという言葉は、りんご農家の言葉だ。

収穫の前に、りんごを赤くするために、りんごの周りの葉を摘み、りんごに日を当てる。

もちろん、シードル用りんごも葉摘みをしている。

 

通常、ワイン用ぶどう農家が言う除葉という言葉は、

夏季にフルーツラインより上の葉を減らす行為を指す事が多い。

バルダー果樹園は除葉をしない、葉摘みをしている。

 

果樹というものは、春先に花を付け、それが実になり、春から秋までずっと果樹に果実を付けている。

だが、最終的な果実の香りは、収穫直前に一気に乗ってくる。

そこで日当たり風通しを良くする事は、香り高い果実を作る為に大切な事だ。

 

私は、樹形において必要以上に枝の分岐を作る事や、

必要以上に果樹園に何かを設置する事が、好きではない。

そこに何かがあれば、それは必ず日を遮り、影を落とし、風を遮る。

可能な限り、果樹園には何もない方が、日当たり風通しは良くなる。

品質を向上させる理由を説明できないものは、
果樹園には何一つない方が、品質を最大化出来る。
 

りんごの品種である、サンふじのサンは、無袋である事を表す。

防除を徹底する事で、袋をかけずに収穫する事が出来たものを、サンふじと呼ぶ。

袋をかけない分、日当たり風通しが良く、より香りが良い。

 

私がワイン用ぶどう栽培において、笠をかけたりする行為を嫌っているのも、

サンふじのように防除を徹底し、その分日当たり風通しをよくした方が、

より香り高い果実が作れるからだ。

 

神は人の上に人を作らず、という言葉があるが、

それなら私の定義する樹形は、太枝の上に太枝を置かない。

一軍の果実が成る場所と二軍の果実が成る場所、という分け方をしない。

全ての果実が、最強になれる切符を手にできる樹形を目指す。

平等とは、全員を50%くらいに調整する事ではなく、全てが最強になれる可能性を持てる事だ。

 

全ての果実に、とりあえず東大に行ける切符を与える。

その上でそれぞれの果実が、サーカスをやろうが、大統領になろうが、

それは自由であり、私が決める事ではないのだ。

彼らの彼ららしい香りの集まりを、私は一本の果実酒にしよう。

 

果樹農家の歴史は、人にとって価値のある果実を作る事でしか人を笑顔に出来ない、

不器用なやつらの歴史だ。

 
果樹農家は、乗用モアという草刈り用のゴーカートみたいな農機具に乗って、日々草を刈る。
乗用モアによる草刈りが、現状での草刈り最大効率だから、
果樹農家は、乗用モアで草を刈れる面積が最大になるように、果樹園を設計する。
果樹農家が草を刈るのは、果実の品質を最高にするためだ。
果樹園の日当たり風通しを最高にする為には、
果樹園には、極力何もない方がいい。

私が農業の実地研修をしていた頃、

実際に果樹農家さんの農業用倉庫を見せてもらうと、

いつも私は、「すげぇ!なんでもあるじゃん!」と新鮮に驚いていて、

それに毎回、「なんでもないと仕事にならないよ。」と返されていた。

 

どの農機具を必要とするか、それをどう農業用倉庫にレイアウトして、季節ごとにどう配置換えするか。

それらは、果樹農家それぞれの目的によっても変わってくるし、

果樹農家の個性が出てくる部分だと思う。

どこに果樹園を作り、どの農機具を使うか選ぶ段階から、農業は始まっているのだ。

◆耕種的防除。
耕種的防除、という言葉がある。

防除とは、果実の品質を上げる目的で虫や病気の害に対処する行為を指す。

耕種的防除は、実際の殺虫殺菌行為ではなく、日当たり風通しの良い園を作る事で、

自然と虫や病気が発生しづらい状況を作る、という果樹農家の技術を指す。

 

殺菌殺虫などの防除行為だけでは防除の目的は完成しない、という教訓として、

長野県の果樹農家に伝わる言葉でもある。

日当たり風通しの良い果樹園を作り、果樹の樹皮の表面を風が撫でるだけでも、

耕種的防除として、効果がある。

耕種的防除とは、一石三鳥なのだ。
日当たり風通しの良い果樹園を作れば、
果実の品質も上がり、作業性も上がり、防除効果までついてくる。
なんとお得な言葉であろうか。

農業のスタイルに、集約的農業だとか、大規模農業だとか言われる言葉がある。
どうせ農家は儲からないと続かないので、
ある程度の品質のものを、ある程度の量収穫する必要がある。

それを実現する手段として、
狭い面積で、地代を抑えながら面積あたりの収量を増やす、という考え方が集約的農業で、
作業性を重視し、同じ労力でも広い面積を管理する事で、結果的に収量を増やす、という考え方が、
大規模農業に入るのだろうか。
正直この言葉の定義はあまり詳しくない。

だが、果樹園で面積当たりの収量を増やそうとすれば、
日当たり風通しの悪い場所というのは、必ず出来るものだ。
それよりは、日当たり風通し作業性の良い果樹園を作り、
その面積を農家が生きるのに必要な収量分だけ広げた方が、品質は上がるだろう。

集約的農業の背景には、一昔前の地代の高さがある。
だが現代では農家は少なく、人の領域は山から下りてきた森に犯され、
果樹園にちょうどいい傾斜地は耕作放棄地に埋もれている。
耕作放棄地を開墾して営農していると補助金が出たりするぐらいだ。

早く最高の果実を作らないと、
長野県の果樹農家という文化が、緩やかに消えていっているのだ。

◆樹形の話。

バルダー果樹園のワイン用ぶどうの垣根は、

南斜面に対して横向きに、東西に伸びていくように作られている。

垣根の間を通れば、少し斜めになりながら同高度を進んでいくような感じだ。

作業性という意味では、横ではなく縦に垣根を伸ばした方が、作業している人が斜めになりづらくて安全だが、

私は、品質を最大化する為に、垣根を横向きに作っている。

 

太陽は、朝は東から出て、夕方には西に沈むような軌道を取るが、

昼の太陽が人の真上に来る時には、少し南側に偏った軌道を通る。

これを、南中と言ったりする。

そもそも、南斜面が果樹園にとって良いとされる理由は、

最も日当たりのいい昼の時間帯の日光を、最も効率よく受けられるからである。

 

そう考えた時、この南中時の日光を効率よく垣根にあるぶどうの葉が受けるには、

南寄りの上空から見て、葉がたくさん見えるように、横に垣根を伸ばした方が効率がいい。

 

また、垣根の間隔は大体2.3mぐらいになっているのだが、

これは、南中時に差し込む日光が若干南寄りの斜めに差し込む事を考えた時に、

垣根の高さから考えて、日光が全ての垣根の根本までギリギリ差し込むようにする為の間隔である。

 

もちろんこれは、日当たりの良い南斜面に果樹園を作る前提の話だ。

日当たりが良くない場所でも安定して日光を受けるには、

縦に垣根を作った方が、日光の最低保証値が高い。

私が日当たりの良い南斜面を開墾してワイン用ぶどうを植え、横向きの垣根を作るのは、

私が目指している果実が、最高の香りを持つ果実であるからだ。

 

香り高い果実を付ける果樹の樹形は、

ワイン用ぶどうでもシードル用りんごでも変わらない。

主枝を横に誘引して、その主枝の横から成枝を出し、そこに果実を付ける。

ワイン用ぶどうでは、成枝は垂直に伸びて、

シードル用りんごでは、高く掲げた主枝から成枝が弓なりに垂れる。

 

主幹形(クリスマスツリーのような、自然な樹の樹形。)では、

樹勢も強くなり、果実の日当たり風通しも確保出来ず、香り高い果実は作れない。

香り高い果実を付ける果樹の樹形の基本は、

まず、主枝を横に誘引する事である。

 

バルダー果樹園がワイン用ぶどうにおいて、

ダブルギヨでなくシングルギヨを選択している理由は、

果樹一本当たりの、主枝が横になっている部分の量を最大化する為である。

 

また、コルドンでなくギヨを採用している理由は、

コルドンというシステムは、何年も続けていると主枝が太くなり芽座が上がっていき、

最終的には、ギヨのように主枝を更新せざるを得ない時が来るからである。

 

それなら、最初から毎年更新してやった方が樹勢への影響が少なく、

毎年のワイン用ぶどうの品質のムラを減らす事が出来る。

 
矮化という言葉があり、
ワイン用ぶどうの垣根などは矮化の代表例で、
果樹を1m間隔で密植し、果樹同士の根を互いに干渉させる事で、
無制限に果樹が大きくなる事を防ぐ方法だ。

それでも、何年も経って果樹が大きくなれば、十分に矮化しきれずに大きくなろうとしてしまう事もある。
なので、少しでも果樹を小さくするために、矮化する時は、苗木の台木に、矮化に適した台木用の品種を使う。
矮化ではない棚の生食用ぶどうに使う台木を、矮化のワイン用ぶどうのトレリスに使っては、
1m間隔の狭いスペースに根や枝を伸ばしても、
果樹が大きさに満足する事が無くなってしまう。

この考え方で行くと、普通樹のりんごの木は、矮化ではない。
ただ、しっかりと果樹の樹勢を弱らせた状態で、
柳のように弓なりにしだれる枝を、枝受け支柱で支え上げながら収穫するりんごの木は、
毎年それほど大きく成長はしない。
むしろ、樹体が大きいからこそ、ギリギリまで樹勢を弱められる。
果樹が果実を完成させようとする為の果樹農家の操作を、たくさん行う事が出来る。

矮化の代表的手段は、密植による根の範囲の制限かもしれないが、
矮化という言葉そのもの意味は、果樹栽培の結果であり、思想という道具でもあるのだろう。
長野のりんごの矮化垣根栽培は、私から見れば十分に矮化出来ておらず、
成木になってから10年以上果樹の大きさを維持できるシステムではない。

人は、自分の人生を観測し、そこから何かを感じ考え、自分の生き方を決めていく生き物だ。
矮化という言葉も、樹勢を弱め、果樹に果実を完成させようとする事も、
果樹農家の生き様を表す、一つの言葉であるのだろう。
果樹農家が、最高に香り高い果実を収穫する為に、あらゆる操作を考え、試し、悩み、試行錯誤する。
果実とは何か、果実の価値は何か、何が良い果実なのかという定義は、果樹農家によって違う。
その個人的な指向性の違いを表す、自己紹介の言葉の一つなのだろう。

この樹形は、土壌中の肥料分を通常よりかなり低く抑えないと成立しない。

足りない肥料を足すのは簡単だが、多すぎる肥料を抜くには、何年も待つしかない。

 

ぶどうはマグネシウムを大量に必要とし、りんごはカルシウムを大量に必要とする果樹だ。

だからと言ってぶどう畑の地面にマグネシウムをたくさん入れると、

土壌中のカルシウムとマグネシウムのバランスが崩れ、

その他の養分の吸収効率も、不安定になる。

これでは、樹勢をギリギリまで弱めてやる事も難しい。

 

ぶどうに必要なマグネシウムを全て地面の下の根から吸わせようとすると、

果実の品質を求める果樹農家にとって、困った事態になる。

その際に便利な技術が葉面散布であり、

農薬散布の際に、ぶどう畑にはマグネシウム、りんご畑にはカルシウムを追加の液肥として散布し、

その名の通り葉の表面から摂取させる事で、それらの養分の不足を補うのだ。

 

葉面散布を行う事で、

結果的に土壌中の肥料分をより少ない状態で安定させ、樹勢を弱める事が出来る。

 

香り高い果実を作る為に大事なのは、果樹農家が樹形を定義しておく事だ。
弓道のように、膨大な反復練習によって優れた「型」を取れるようになる事が、
その果樹園の全ての果実の品質を最高に出来る理由になる。

◆剪定の話。

バルダー果樹園の特徴として、

ワイン用ぶどうにおいて、摘心

(垣根の上に伸びた枝を、一定の高さで切り揃える作業を指す。)

や、シードル用りんごにおいて、徒長枝切り

(真上に伸びて樹勢が強くなる枝を徒長枝と呼び、それを冬の剪定ではなく夏季に切る作業の事を指す。)

をしない事が挙げられるが、

そもそもバルダー果樹園は、冬の剪定以外で果樹に刃を入れないのだ。

 

何故、剪定という言葉があるのかというと、

果樹に果実がついている時期に枝を切ってしまうと、

その分芽数が減り、樹勢が強くなり、果樹が果実を熟させようとしなくなるのだ。

だから、果樹に果実が接続されていない、冬の果樹が休眠している間に、

日当たり風通しに悪影響を与える枝を切る事で、

果樹に刃を入れる事による果実の品質低下を最小限にしている。

 

それが、剪定という言葉の意味であり、価値である。

 

県の果樹試験場の先生は、

誘引で済むものは、全て誘引で済ませた方が良い。と言っていた。

農協の剪定講習会の資料には、剪定の目的に、日当たり風通し作業性の三つしか書いておらず、

樹勢を弱める事は、剪定の目的には書いていなかった。

その意味が、今ならわかる。

 

果樹に刃を入れる事が樹勢を弱める場面など、一つもないのだ。

結果的に日当たり風通しが良くなり、樹勢によるマイナスを上回る果実の品質向上がある時だけ、

果樹農家は、果樹に刃を入れていいのだ。


間引き剪定と、切り返し剪定、という言葉がある。
樹勢を強めづらい剪定が間引き剪定で、樹勢が強まる剪定が切り返し剪定だ。
二又に分かれている枝を分かれ目の根元で切って、きれいな一本の道にするような、
樹形的に枝の先端を切って止めていない切り方が間引き剪定で、
二又に分かれている枝を、分岐より先の途中で切って先を残し、
樹形的に枝の先端を切って止めている状態にするのが、切り返し剪定だ。

例えば、果樹農家は苗木を買ってきて植える時、敢えて先端を切る場合がある。
これは、幼木が枝を長く伸ばす為に、敢えて切り返して樹勢を強くしているのだ。

例えば、枝が重なり合って日当たり風通しが悪い箇所があった場合、
枝分かれの根本に戻り、その箇所に被る太枝を根元から抜いて、
その箇所にある太枝の本数を減らすのが、間引き剪定だ。
逆に、剪定鋏でそれぞれの小枝の先を複数個所切り戻して、
騙し騙し日当たり風通しを確保しようとする剪定は、切り返し剪定だ。

講習会ではよく、果樹の剪定は盆栽ではない、という言葉を聞いた。
細かくハサミをパチパチして先端を切れば、それだけたくさん切り返してしまい、
樹勢が反発して強くなる。
それなら大きな枝を根元から間引いて解決する方が、
樹勢への影響が減り、果実の品質は上がる。

バルダー果樹園は、剪定鋏を殆ど使わず、小型チェーンソーでほとんどの剪定を終わらせる。
こうすると、自然に間引き剪定が実践できる。
日当たり風通しを阻害するような、枝を切った後のでっぱりなども、
チェーンソーであれば、彫刻のようにきれいに削り取れる。

同様の理由で、良い果実を取りたいという理由で、

収穫前の果実をいくつか落とし、量を減らしてしまうと、

果樹に接続された種の量が減り、樹勢が強まり、熟している最中の他の果実の香りが落ちる。

 

果樹農家が意図していなくても、虫や病気や獣の害が出れば、果樹に刃が入ったことになる。

鹿やハクビシンや虫や病気が勝手に果樹に刃を入れていくたぁ、ふてぇ野郎だ。

その品質低下を許す事は、果樹農家として出来ない。

◆農薬という道具。

私は就農から3年ぐらい、ワイン用ぶどうを有機栽培で作ってみる実験をしていた。

そして3年目で、有機栽培で認められている石灰硫黄合材とボルドー液だけでも、

ある程度の品質の栽培が出来る方法がわかった。

 

私がその時に思った事は、

厳しい安全基準で法的に許可されている他の農薬を使用せずに、

果実の品質を妥協するのは、私のなりたい果樹農家の姿ではない、という事だった。

 

例えば、

ワイン用ぶどうの有機栽培においてよく使われるボルドー液の商品の一つである、

ICボルドー66Dの登録作物を見ると、ぶどうは書いてあるが、りんごは書いていない。

仮にこれをりんごに散布して販売しようものなら、違法な農薬の使用になる。

 

農薬のラベルには、登録作物、用途別の希釈倍率の範囲、収穫前日数やら、とにかくたくさんの事が書いてある。

逆に言えば、この一覧にない使い方をすれば、全て違法であるのだ。

農薬メーカーが多くの金と時間を使って、農薬の登録を取ってくれるのは、ありがたい事なのだ。

 

そもそも、ボルドー液を農薬として使ってもよいとされる理由は、

有機の基準に適合するからではなく、

農薬としての登録があり、その登録されている方法の中であれば許される、というだけだ。

 

車の免許というシステムは、原則として車の使用を禁止しながら、

教習所を出て免許を持っている人は運転してもいい、というような部分的な許可である。

農薬の登録も、同じような部分的な許可であり、登録のない使い方は違法だ。

 

農薬と農薬でないものを分けるのは、人が設定する目的だ。

人が農薬として使うものは、全て農薬で、

現代社会が農薬の安全性を司る為に使っているものは、この農薬の登録だ。

 

実際、古くて効果が強い農薬は、現代では登録のないものが多い。

それを知らずに使ってしまった農家が生きていられなかった話は、講習会でもよく聞く。

新しい薬の方が効果が弱い代わりに副作用が少ないというのは、最近の精神科の薬と同じだ。

 

化学農薬という言葉が何を指すのか、バルダー果樹園にはわからない。

有効成分を化学式で表せない農薬など、存在しないのではないだろうか。

化学の方が、様々な物質に対して人の歴史が後付けで付けた、認識の枠組みでしかないのだ。

 

私が学校で始めて化学を学んだ時、

私は勝手に、現代では化学式を入力するだけでその物質を生成できる機械のようなものがあると思っていた。

だが、実際のところ、その化学式の物質を得るには、

様々な物質を組み合わせ、気が遠くなるような実験をしなくてはならない。

 

化学とは、人が自然に存在する物質について考えてきた、

考古学のように古臭く地道で、だが有用な歴史でもある。

教科書には様々な教科があるが、その全てが、

その分野に携わってきた多くの人々の歴史である、とも言える。

 

有機栽培かどうかと、食の安全は大事だ、という話は全く別の話だ。

有機栽培だから安全だ、という言葉ほど、

食の安全について考える事から、遠い場所にある言葉もないだろう。

 

車は簡単に人を殺すと思って車を運転するのが、安全運転だ。

教習所が、ドライバーの卵に交通事故の危険性を脅し散らかす事には、意味があると思っている。

包丁は手を切ると思って、料理をする。

危ない道具は、危ないと思って使う事に価値がある。

人を殺せない道具などない。鉛筆も、言葉も、人を殺そうと思って使えば人を殺せる。

 

私はゲーマーとしても、舐めプは好きではない。

私のチームはいつも、勝ちに行く事を楽しむ、というスタンスだった。

私がいつも全力で勝ちに行くのは、その方が楽しい事を知っているからだ。

結果的に勝っても負けても、全力で勝ちに行った試合の結果というものは、

いつだって学びが多く、楽しいものだ。

 

私が使える選択肢の全てを以って、私の果実の価値を最大化した方が、

私はきっと、果樹農家として楽しく生きられる。

 

人が生きやすくなるようにおせっかいを焼きたいのなら、

まずは、私が楽しく生きていなければ、示しが付かない。

バルダー果樹園は、不完全な人であり、罪を重ね続けた愚か者だが、

自分の人生が楽しくない事を他人に誇るほど、愚かではない。

 

私が農作業をしていても、

それは、人から見たら楽しく遊んでいるように見えるかもしれない。

だが、それが遊びであるというだけで軽んじられるほど、軽い気持ちで遊んではいない。

私が遊ぶ事を大切にしているのは、私の人生経験を後悔した結果の経験則であり、

それが私の考える、最高の果樹農家であるからだ。

 

果樹農家が売る物は、人が生きるために必ず必要な食糧ではなく、嗜好品である。

りんごやぶどうなど、仮に果実酒にしなくても、そもそも食べなくても人は死んだりしない。

バナナを買ってラップで巻いて冷凍庫に投げこんで冷凍のまま食べる方が、手軽に果実を食べられる。

日本で売られる果実全般は、非常にコストがかかっていて、

まるで伝統工芸品か芸術品のような価格をしている。

 

それならバルダー果樹園のワインは、
果実の香りが爆発していなければならない。

未来のバルダー果樹園が、3500円のワインを売る時、

このワインの香りの価値は2500円分しかないけど、有機栽培である事に対して追加で1000円払ってくれと、

私の顧客に言い訳がましく営業する私は、私のなりたい私の姿ではなかった。

3500円のワインには、3500円分の香りがあると思って売る。それがバルダー果樹園だ。

◆人の領域の守護者。

バルダー果樹園は、展着剤に金をかける事を大事にしている。

展着剤とは、農薬を散布する際に薬液に混ぜるもので、農薬のような殺虫殺菌効果は存在しない。

台所用洗剤の界面活性剤のようなもので、薬液の粘度を上げる事が展着剤の目的だ。

 

残効、という言葉があり、

果樹農家が農薬を散布するサイクルは、二週間間隔なのだが、

これは、果樹に散布した農薬の効果が持続する期間が、大体二週間程度であるからである。

その時にどんな薬を散布しようが、その薬液は物理的に樹体の表面に吹き付けられて、

表面張力の作用で多すぎる分は流れ落ち、一定の厚さの薬液の層でコーティングされ、

それが乾燥する事で、樹体の表面に一定量の薬効が残り、残効が成立する。

 

果樹農家が、

スピードスプレーヤーに入れた500リットルもの大量の水に農薬を溶かしてから散布する理由は、

この薬効のムラを極力減らす為である。

現時点だと、まだドローン防除は少し時代が早すぎる気もする。

そう言っていると気づいたら、ガラケーの時代が終わったりしている。

 

農薬を散布したのに病害が出る、防除の失敗と呼ばれるもののよくある例として、

前回の散布から二週間後に雨が降って散布が出来ず、残効が切れる、というものがある。

値段が高い展着剤は、見た目も松脂のようにドロドロしており、使う量も多いが、

その分、樹体表面に残る薬効をコーティングして保護する作用をして、この残効を伸ばす事が出来る。

 

展着剤による残効の差が、二週間にプラス一日か二日されるだけだとしても、

それで防除の失敗を回避できる可能性は、大いにあるのである。

 

バルダー果樹園の防除暦は、大抵収穫一か月前には最終防除が終わるのだが、

収穫直前の農薬散布無しの一か月間に病害虫が発生しない理由は、

物理的な防除のアシストである、耕種的防除や高い展着剤のおかげだろう。

 

防除とは、積み重ねである。

去年も病害虫が出なかったけど、今年もちゃんと防除を続けたから、今年も病害虫が出なかった、

という継続を目指す事が、防除の目的である。

病害虫が発生している園に、一度殺虫殺菌剤を散布したぐらいでは、

果樹園全体の病害虫の量が一割も変わる事はない。
防除の防は、予防の防なのであろう。

 

忌避効果、という言葉があり、

自然の側も、そこが明らかに人の領域であると認めれば、あまり手出しをしなくなってくる。

植物や動物からしたら、人という生き物は凄まじく臭い生き物らしい。

果樹農家が出来る事は、ここは私の果樹園である!と自然に対して叫び続ける事ぐらいである。

果樹農家という生き物は、いつも乗用モアに乗って草を刈っている。

草を刈る理由には、もちろん日当たり風通しや耕種的防除や作業性など色々な理由があるが、

自然に対して、ここは人の領域であり、ここは私の果樹園であると、誇示しているような行為でもある。

果樹農家は、果樹園の片隅に倉庫を建て、外壁で囲い、頑丈な錠前をかけても、
盗人が本気を出して重機を持ってこられたら、それらが無意味である事を知っている。
それでも、重機を持ってこないといけないのは、盗人側からしてもリスクが高い。
これもある意味忌避効果のようなもので、不完全ながら、意味のあるものだ。 

果樹農家が、果樹園に支柱を立てたり苗を植えたりするような、地面をいじる仕事をする時に、
まるで動かない石を、周りを掘らずに直接引っ張り出そうとする人を諫める言葉として、
「地球と綱引きをしても勝てない。」なんて言葉をよく言ったりする。

果樹農家が作る果実の価値は、
果樹農家という人が認識し、定義するものであって、自然が勝手に与えてくれるものではない。
だが、果樹農家は自然について、
果樹や雑草や害虫や菌や獣の生理生態などについて、非常によく学ぶ。

それは単に、自然と真っ向勝負のボクシングをするよりも、
柔道のように、自然を学び、自然の力を利用して、
自然に対して、人の定義した価値に誘導するような簡単な操作をする方が、効率が良いからだ。

◆マーケティング。
マーケティング、という言葉がある。
マーケットイン、という言葉が元で、対になる言葉がプロダクトアウトであり、
プロダクトアウトが、売る側の理屈を表す言葉で、
マーケットインは、顧客側の理屈を表す言葉という扱いになる。
つまりマーケティングという言葉は、もっと顧客について考えよう、という呼びかけである。

昨今マーケティングと呼ばれるものは、
あらゆる商品の品質対価格効率が上限に達しているから、付加価値を付けよう、
という論法をよく見る。
長野県も、ストーリーという言葉を使って、ものを売ろうとしている。
だが、果実の品質がこれ以上上げられないという前提は、果たして妥当な推測だろうか。

最近のネット社会は、人々の個人的な体験が効率化された結果、価値観のアップデートが早くなり、
リアルで若手農家扱いされるバルダー果樹園も、
ネットにおいては、古いネットに囚われた老害でしかなくなっている。
私はネットではいつもアカウント名で呼ばれず、おじさんとか文豪としか呼ばれない。

そうでなくても、人の歴史はいつだって、
未だ見ぬもっと人を生きやすくするような新しい道具を作り続けて、
それを継承して更に生きやすい道具を作るという、歴史である。
全ての商品が、人を生きやすくするために人が作ったものである道具的価値を持ち、
それに対して顧客が金を払い、その価値を享受して、その人生を豊かにする。

バルダー果樹園がお金を出して、
チェーンソーという物体を購入しているように見えても、
それは、チェーンソーそのものを購入しているというよりは、
自分がチェーンソーを使って効率よく剪定を出来るようになる、
という個人的な体験に価値を認めて、チェーンソーを買っているのである。
全ての物事の最終的な結果は、個人的な人生の体験という形に出力される。

その道具的価値が、これ以上上げられないというマーケティングの前提は、
顧客という一人一人の個人が、何を価値と感じて果樹農家の商品を買うのか、
そして大前提として、人というものがどんな存在であるのか、
それらについて、十分に考えられたマーケティングだとは思えない。

価値のない果実に対して、言葉で金を払ってもらおうとする事は、
この先20年30年と経営を継続させなければならない果樹農家にとって、
目的達成効率の良いマーケティングだとは思えない。

加工用りんご、という言葉がある。
加工用りんごは、生食用りんごとして落第したりんごとして扱われる。
加工してジュースやシードルになった時に最高の香りを引き出すように作っても、
加工用りんごという言葉を当てはめた時点で、それは生食用りんごより圧倒的に安い。
加工用りんごが金にならないから、
長野県のりんごに興味を持って長野県の直売所にりんごを買いに来た人が、
生食用りんごとして考えた時に、見た目でテンションが上がらないりんごが並んでいるのを見る事になる。
加工用りんごという呪いの言葉が、長野のりんごの価値の首を絞め続けている。

農業の業界で、六次産業化という言葉が何かと持て囃されるのは、
こういう呪いの言葉の被害を回避して、高い価値を定義するには、
自分で加工して販売するしかないからだ。

規模の経済性という点で、
一枚の面積が広い果樹園が作りづらい山がちな長野の果実の、量とコストに対する生産効率が、
山梨や青森や北海道やフランスに勝てる道理がない。
だが、長野は山がちだからこそ、標高を操作する事で各果樹に最適な温かさを選ぶ事が出来て、
各果樹農家の、個人的な最高品質の定義を違いを受け入れるだけの幅がある。
寒暖差も果実の品質に有利に働くし、南斜面の日当たり風通しの良さは特筆に値する。
だからこそ、私は長野の果樹農家として、果実の品質が高い事を誇る事しかできない。

私は、テロワールというこじゃれた言葉の意味を、あまりよく認識出来ていないが、
テロワールという言葉は、純粋なその地域の気候や風土よりも、
その気候や風土から生じた、その地域の果樹農家達の特色、のような意味合いで使われているように思える。
農業が、自然から価値を授かる物ではなく、人が定義した価値を追い求める行為なのであれば、
テロワールという言葉が指し示すものが、人に近い物事に寄っている事にも納得がいく。

私なりに考える長野の果樹栽培のテロワールは、
量ではなく、品質を誇る事なのだろうと思う。
長野の全ての果樹農家が、自分の果実の品質がこそが世界最強であると誇る事が、
長野県の果樹栽培のテロワールであろう。

言葉もまた、一つの道具であれば、
チェーンソーで折り紙を折るような不幸な道具の使い方をしないのが、人の責任であろう。
正しい人など居ないし、正しいマーケティングなどない。
だからこそ、一人一人の生産者が自分なりに、顧客という一人一人の人について考え続けなければならない。
顧客というものを画一的に単純に考える事は、質の低いマーケティングであろう。

マーケティグというのは、器のようなものだ。
顧客の個人的体験の価値という器の中身は、人によって様々であっても、
価値を提供する器の質、
マーケティングという思想の道具、あるいは価値提供システムとしての価値提供効率は、
高いに越した事はない。

レッドオーシャンやブルーオーシャンという言葉は、
一つの業界を一つの需要と捉えている時点で、需要の細分化が十分に考えられていない。
この商品のターゲットは30代男性です、と言った時点で、
顧客という一人の人の人生にとって、
何がその人にとっての価値であるかを想像する事から、逃げている。
人の個人的な思想の価値を低く見積もっている事を、察する事が出来ないほど、
顧客というものは一様に愚かであると断じる気には、私はなれない。

マーケティングとして新規参入者がやるべき事は、
新しい価値を定義し、その価値を認める新しい顧客を作る事であろう。
生産者も、顧客も、人の個人的な生き方の数だけ、様々な価値の可能性があるはずだ。
人を生きやすくするような道具的価値を提供するという最も基礎的な話が、
全ての企業における、最大の社会貢献であろう。

ブルゴーニュのこのワインのようなワインを作りたい!という言葉を持ってワインを作れば、
自分の顧客が、何故そのブルゴーニュのワインを買わずに自分のワインを買ってくれるのかを、
認めて、説明する事が出来なくなる。

就農直後の私が、まだりんごの香りを引き出す栽培を出来ていなかった頃、
私のりんご園に一台の観光客の車が来て、是非りんご買わせてくれと言われた事がある。
私はその時、この地域の別のりんご農家の園の方角を指差して、
「あっちのりんご園の方が、全然良いりんご作ってますよ。」と言った。
今の私は、その時と全く同じ気持ちで、
「果実の香りでは、私は誰にも負ける気がしない。」と言う。

需要と供給という言葉を考えれば、プロダクトアウトとマーケットインは、
二つ合わせて初めて回転し始めて、高い道具的価値を持つのだろう。
それなら、生産者が商品の価値の認識に限界を設定してしまう事は、
マーケティングという新しい言葉が作ってまで、より人を生きやすくしたいと願った誰かに、
十分に報いる事が出来ているマーケティングなのだろうか。

商品の、顧客の体験としての価値を高めるために作られたマーケティングという言葉が、
いつしか、顧客にとっての道具的価値を上げなくても良い理由の言葉になっている。
私はそれを、ものを売って生きる商人の一人として、
価値提供効率の良い言葉とは思わない。

ワインの価値を示す言葉として、栽培7割醸造3割、という言葉がある。
近年では栽培8割醸造2割、とも言うらしい。
どちらも、ワインの価値を作る過程で栽培は大事だ、という意味合いだ。

私の考えでも、果実が持っていない価値を醸造で付加する事は出来ないと思っている。
私は、ワインに樽の香りを付加する事が好きではない。
樽の香りを足さないと物足りないワインになるなら、それは果実の品質が低いだけだ。

私が考えるワインの価値は、栽培10割醸造0割だ。
醸造家という仕事の価値を、低く見積もっている訳じゃない。
良い醸造というものは、
最高の果実が持つ100%の価値を、いかにパーセンテージを損なわずにワインという形にするか。
という部分で競われるべきだと考えているだけだ。
果実の最高の価値を損なわない醸造というものは、とても難しい事なのだ。

どうも私は、王道というものが好きらしい。
皆が当たり前に知っている事を、当たり前ではない精度で実現する。
不意打ちがキレイに決まった時の、1.5倍の有利補正を跳ねのけるような、
基礎的な練度の2倍の差が好きだ。

人の3倍の時間と思考量をかけて、人の2倍の質を手に入れる。
弓道の摺り足のように、意識的にゆっくり歩く事で、誰も見た事が無い景色に到達する。
それが私という性能の低い人間の常套手段の勝ち筋で、効率の良い生き方だ。

私の人生はずっと、器を作っていたように思える。
様々な思想の人が入り混じっても、全ての人の目的達成効率が良くなるような、
言葉による約束で形成された、チームという器。
私の頭の中の、バラバラの他人事の経験達に目的を示して作った、人の形をした器。
果樹の樹形という、人にとって価値のある果実を生産する為の器。
果樹農家という仕事も、果実の香りを提供する為のシステムであり、器であろう。

私はただ、最高の器を作りたいだけの存在なのだろう。
器に入るものが一番大事で、器そのものには最大の価値がある訳ではないからこそ、
器の質が低いせいで、中身の価値が出力される効率が下がる事は、口惜しい。

仮に、バルダー果樹園のワインが最高の価値を持っていても、
その価値そのものがダイレクトに、顧客の個人的な人生を豊かにする訳ではない。
自分の人生の目的を認識し、目的達成効率を上げる選択が出来るのは、その人だけだ。
そういう意味では、ビンという器に入っている中身のワインの価値すら、
価値の中身ではなく、一つの器なのであろう。
私のワインに出来る事は、全ての人が、その人らしくある事への手伝いぐらいだ。

私は、3500円のワインを買った人の、3500円分の価値のある体験の中身を、定義しない。
それは、器の中身であり、個人の自由な人生の範囲でもあり、最も尊いものであり、
私が上書きして良いものではなく、私が触れられるものでもないからだ。

だからこそ私は、価値を提供する器の質について考える。
私にとって、よい人生というものは、
幸福を山のように積み重ねて、背伸びしてどうにか手を届かせてキャッチするものではなく、
地面に散らばったたくさんの小さな不幸を、一つづつ解決して試行錯誤した先に見える景色だ。

継続は力なり、という言葉があるが、
強い力を行使する為には、それだけたくさんの個人的な人生が必要なのだろう。
自分の個人的な人生の全てを、道具として一つの目的に接続する方が、
力の元となる継続がたくさんある、強い状態になる訳だ。
人の形をしたものが出力できる最強の値は、いつだって個人的な形をしている。

私が小学生の時、私の担任の先生は、私に何かのお説教をする時の前フリで、

「100人中99人が、君の方が悪いと言うと思うよ。」と言っていた。

私はいつも、その推測に同意しつつ、

その状態の何が説教されるほど悪い事なのか、ずっとわからなかった。

私が大学で学んだマーケティングの先生は、
自分が学生時代に野球部のマネージャーをしていた時、
選手の行動をたくさん観察し、考えて想像した結果、野球部が成功したという、
とても個人的な話を、何度もしていた。
私はその個人的な話が、どのマーケティングの理論よりも好きだった。

マーケティングの対象が、顧客という、複雑で曖昧で個人的な存在であるなら、
マーケティングというものが語る内容も、複雑で曖昧で個人的なほど、よいのだろう。