フレーバーテキスト。
フレーバーテキストとは、
カードゲームで使用するカードに書かれている文章の一部を指して使われる言葉だ。
カードゲームのルール上意味のある数字や、意味のある効果を説明した文章とは別に、
カードの世界観を表現する目的で書かれた、
カードゲームのルール上、全く意味のない文章が、
フレーバーテキストだ。
カードゲーム上の物語での、主要な登場人物のカードには、
その登場人物の印象的なセリフが、書かれていたりする。
この章に書かれる文章は、
フレーバーテキストのように、バルダー果樹園の価値そのものとは関係はないが、
バルダー果樹園の世界観を表現する為に、書かれた文章である。
非常に長いので、無理に読む必要はないが、
バルダー果樹園のワインやシードルの香りを感じて、バルダー果樹園に興味を持ち、
「何故ワインを売るのか。」や、「これから農業の話をしよう。」を読んで、
それでもまだ満足しきれぬバルダー果樹園オタクの為に、
バルダー果樹園の人生を、私という一人のインターネットオタク的側面から解釈したものを、
フレーバーテキストとして、ここに置いておこう。
◆赤いツナギ。
バルダー果樹園は、赤いツナギを着ているからバルダー果樹園なのである。
Youtubeで使用するアバターにおいても、試飲会に現れるリアルのバルダー果樹園においても、
赤いツナギを着て、XLサイズのクソデカキャップをギリギリまで緩めてようやく被って、丸眼鏡をかけている事が、
バルダー果樹園であるのだ。
おしゃれ、という言葉があるが、
おしゃれは、自己紹介の言葉の一行目なのだと思う。
私はこういう人です、と自己紹介して言葉を語る前から、
私がどのような見た目で現れるかを決める段階で、既に自己紹介は始まっているのだろう。
大学時代、戦時中の学生ファッションの私を、陽キャが囲んで今風のファッションをオススメしていた時、
後輩の女子に、私の服装は、親が選んだものをそのまま着ているようだ、と言われた。
確かに、当時の私はその辺に無頓着で、たまたま家にあって着心地がよかったからという理由で、
ラルフローレンのシャツを着ていた。
オタクがおしゃれをするなら、服屋の店員さんの言いなりになるとか、マネキン買いをするといい、
という言葉があるが、
私はそれを最低3回は実践して、3回ともいたく後悔した。
私が私でない事は、私の周りの人に迷惑をかける。
私が小学生の時、初めて殴り合いの喧嘩をして、勝ったのは私の方だった。
だが先生が駆け付けた時に、ぎゃあぎゃあ泣いていたのは私の方だった。
人を殴る事は、ただただ不幸で、とてつもなく不快で、最高に気分が悪かった。
マニュアルの軽トラを運転していれば、
ブレーキペダルをほとんど踏まなくても、ギアチェンジによるエンジンブレーキだけで速度を制御出来る。
だが、エンジンブレーキで減速する時には、ブレーキランプは点灯しない。
後ろのオートマの車から見たら、ブレーキを踏んでいないのに急に車が減速して見えて、非常に危ない。
だから、エンジンブレーキをかける時に、軽くブレーキペダルに触り、ブレーキランプを付ける。
車についているウィンカーという物も、元は手旗信号だったと聞く。
大事なのは、正しい運転をする事よりも、誤解を減らす努力をする事だろう。
道を譲る時は、きちんとブレーキをかけて減速しながら、
パッシングなどで合図をして、片手を大きく掲げて、
美しい笑顔でなくとも、笑顔だとわかりやすい顔の歪め方をしながら、
道を譲っている感をしっかりと表現する。
そういう事も、自己紹介の言葉を惜しまない、という言葉の範囲に含まれるだろう。
誤解の発生する可能性が存在しない、十分で完全な説明の言葉など、
ただの一つも見たことがない。
質問に質問を返してはならない、と語る人は、
自分の言葉が、他人の脳に直接響き渡っているとでも認識しているのだろうか。
むしろ存在しないのは、誤解ではなく、理解の方だ。
私は、昔から謙虚で正しい人間であろうとしてしてきた。
だが、その無責任な人生が、結果的に私の周囲の人々に不幸そうな面をさせてきた。
だから私は、正しくあろうとする事をやめた。
赤いツナギを着て、自分の言葉は何も正しくない狂人の言葉であると語る。
個人的な自己紹介の言葉は人にやさしいが、正しい言葉は人を殴る理由にしかならない。
私を信用してくれという言葉は、人に何かを考えて欲しくない詐欺師の言葉だ。
やさしさと正しさは、遠い遠い反対側の位置に置かれている。
傲慢に、私の作るワインとシードルの価値を語った方が、
私のワインとシードルに納得してお金を払ってくれた人の、
買い物という人生の一部の価値を、高く評価する事が出来る。
果樹農家が、傲慢に果実の価値を誇らなかったら、
誰がその果実の価値を認めてくれると言うのか。
◆言葉は、悪あがきのようなものだ。
私がよく言う、言葉の成り立ちに関する持論。
人は、自分の人生を観測し、そこから何かを感じ考える事は出来るが、
他人が観測している他人の人生を、直接観測する事は出来ない。
原始人が、狩りの連携の為に言葉を使い始めたのなら、
それは、叫び声や地面を叩くような合図で十分であっただろう。
言葉という道具は、狩りの連携に使うには、
あまりにも複雑で、冗長すぎる。
その上で、言葉という道具が出来た理由を想像するなら、
ある時、他人の頭の中を理解できないと気付いた原始人が、
他人の頭の中という、決して手に入らなくて、かつ興味深いものに、
憧れ、焦がれ、悪あがきのように、手を伸ばして紡いだものが、
言葉だったのだろう、と考える。
言葉という道具の目的は、理解ではなく、
人を知りたいという執念が生んだ、悪あがきなのだろう。
◆正しい言葉などないからこそ、言葉は面白い。
これは、私が中学生の時に受けた、国語の先生の授業の話を参照している。
その先生は、辞書のメーカー毎の説明の言葉の違いや、
辞書の説明そのものが社会で使われる言葉の変化と共に年々変容している事を語り、
「辞書が正しい訳ではないからこそ、言葉というものを楽しんでほしい。」と言っていた。
便宜上何々とする、という補足説明の言葉があるが、
便宜上という言葉は、これは決して正しい言葉ではないが、今回の言葉の用途に対して都合がいい、
というような説明の言葉である。
私は言葉という道具も、人が目的に応じて選んで使うものだと考える。
場面が違えば、目的達成効率の良い言葉なんて、いくらでも変わる。
便宜上という言葉は、人にやさしい。
あるネットの友人が、自分は誰かに陰口を言われても気にならないと言っていて、
その理由を、私に直接悪口を言わないという判断をしている分だけ、
その人は私との関係性を高く評価しているからだ。と言っていた。
私は陰キャなので、これを聞いた時は少しビックリしたが、
確かに、言葉をどの場面で言うか選ぶ事も、言葉という道具の範疇なのだろう。
何より、こう解釈する方が、結果的に人を殴らずに済むし、
実際に聞こえてもいない陰口に怯えながら生きる方が、生きづらい。
関連項目で、英語の先生が言っていた、
「すぐに辞書を引くな、自分なりに考えて結論を出してから辞書を引け。」
という言葉もある。
インターネットの言葉で、ググレカス、という言葉が昔の2chの時代に存在した。
それぐらいグーグル検索したらすぐ出るよカス、といった意味である。
この時代は確かに、グーグル検索をすれば欲しい情報にアクセスできる時代だった。
だが、現代のネットはホームページの数が増えすぎて、
ググレカス、という言葉にあまり意味がない時代になってしまった。
新しい趣味でも始めようかと思ったら、グーグル検索をするよりも、
その趣味の先輩をツイッターで一人捕まえて、ディスコードで話を聞く方が早いと思う。
平成も終わり令和になったと言うのに、
未来のインターネット社会は、まるで田舎社会のように、
ローカルで属人的で泥臭い方が、効率がいい。
インターネットは、別に夢の道具ではない。
インターネットがやりとりしているものは、
回路上のスイッチのオンオフを0と1という二種類の数字に見立て、
その0と1の長い長い羅列をやりとりしているだけだ。
インターネットそのものには、単純に遠隔地の人間を言葉で繋ぐだけの価値しかない。
それなのに、インターネットが妙に面白く感じるのは、
単純に、インターネットの向こうにいる個人的な人の言葉が、面白いからだ。
現代で社会人と言えば、情報を扱う仕事、サービス業とか呼ばれるものが大半だ。
もしも、人が互いの頭からUSBケーブルを繋ぎ、頭の中の情報を直接共有できるなら、
そのような社会における情報の価値は、もっと低かっただろう。
同じ情報でも、受け取り手によって受け取る情報そのものが変質するから、
現代社会において情報とは、多くの人を介して多面的に拡散して増えていくものだ。
だから情報で飯が食えるぐらいには、情報の価値が高い。
英会話の先生も、「カイセイアンサー」という言葉を使っていた。
その先生は、生徒達に英会話の問題を質問し、それに対して、生徒は問題の解答を答える。
だがこの先生はそれでは物足りなそうで、「それはアンサーだ、ではカイセイアンサーは?」と聞いて、
解答に追加するプラスアルファの回答として、
その問題を解いた時に思った、自分なりの意見を述べさせていた。
カイセイアンサーは、自分なりの意見であれば、不正解は一つも無かった。
先生という仕事の目的が、生徒達に自分で考える力を付けさせる事であるなら、
この言葉は、とても素晴らしい言葉だと思う。
これは、今の私がしている邪推なのだが、
きっとこの先生は、他の学校で授業をすれば、
カイセイの部分にその学校名を代入して、同じ話をするのだろう。
それでも、私が大切にしているこの言葉は、「カイセイアンサー」だ。
そもそも、言葉と言葉の間に、完全なイコール関係は成立するのだろうか。
日本語の「はい」は英語の「YES」だとしても、
人には、「はい」と答えた方がしっくりくる場面もあるし、「YES」と答えた方がしっくりくる場面もある。
仮に、完全なイコール関係で括られる二つの言葉があるとしたら、
その言葉は、歴史の中で一つの言葉に統合されていくのではないだろうか。
そこに二種類の言葉があれば、二種類の目的がある、と考える方が妥当な気もする。
世の中の大抵の事は、程度の問題であり、ニアリーイコールの問題でもある。
1/無限は0であるが、1/5000兆は0ではない。
なら、インターネットで流行る5000兆というバカの数字にも、価値があるのだろう。
私が開成で弓道同好会を作った時、
顧問を引き受けてくれたナイスな先生が居て、その先生は、
「自殺するぐらいなら、死んだと思って社会に奉仕してみなさい。」
と言っていた。
私は、この言葉が嫌いだった。
生きるか死ぬかの話をしているほど追い詰められた人に、社会に奉仕している余裕があるわけがないと。
だが実際に自分が脳を壊し、生きるか死ぬかの状況になった時、
この言葉を思い出して、騙されたと思って試してみた。
当時の私は、アルカンヴィーニュに通いながら、地元のワイナリーの売店でバイトをしていた。
アルカンヴィーニュの講義で聞いたワインに関するコアな内容を、
売店の有料試飲コーナーで横流しして話せば、お客さん達はなかなか喜んでくれた。
人生初めてのバイトで、給料が出るだけでも、社会の一員になれているような気がしてきた。
そこで私は、この言葉への評価を思い直した。
「自殺するぐらいなら、死んだと思って社会に奉仕してみなさい。」という言葉は、
とても個人的で、人にやさしい経験則の言葉なのだ。
方言の強い人とディスコードで通話していると、方言が移ったりする。
インターネットで妙に流行るネットミームには、それだけの口ずさみやすさがある。
我々がインターネットで語る、適当なネットミームだって、
300年後の辞書に、仰々しく載っているかもしれない。
人にやさしい事をしたいと思っても勇気が出ない時に、
エセ関西弁を語る事で、空気を読まずぶっきらぼうにその一歩を踏み出せるようになるのなら、
エセ関西弁には、価値があるのだろう。
人が、自分の自己紹介の言葉を自分で決めるように、
方言は、選んで装備する時代なのだ。
秋葉原にメイド喫茶などなく、秋葉原がまだ電気街だった頃から、
秋葉原の小学校に電車通学をしていたバルダー果樹園としては、
自分をオタクだと言う事が出来ない時代が、昔は確かにあったと思う。
現代、オタクという言葉は非常に良い言葉で、
なんでも熱中できる趣味があれば、オタクを名乗れる。
オタクが一般化して、かつてのオタクという言葉が指していた暗い人々を指す言葉がなくなった。
だから、陰キャと陽キャという言葉が出来て、かつてオタクと呼ばれた暗い人々を陰キャと呼んだ。
だが、この言葉のラベルの変化は、
陽キャのオタクという新しい概念を爆誕させたのだ。
ただのオタクは、人の痛みを知ってはいるが、行動力が無くて人にやさしくなれない。
ただの陽キャは、人の痛みを知らないから人にやさしくなれない。
なら、陽キャのオタクは、最強に人にやさしい。
オタクにやさしいギャルというものは、
麒麟のような伝説上の存在で、かつ最強に人にやさしい存在だからこそ、
オタクにやさしいギャルという言葉には、価値があった。
自分の人生がギャルに救われたからと、
ギャルでない人が、最強に人にやさしいギャルを目指してもいい。
人生の終わりに出るスコア画面を見て、後悔しないように生きたい。
と言うと非常にインターネット的だが、
言っている内容は、とても倫理的で思想的な言葉だ。
インターネットの配信の魅力など、よく考えたら、
配信者の個人的な思想を、喰らいに行っているだけなのかもしれない。
インターネットの配信者が歌う曲の歌詞に、
「分かんないって事が、一番武器になる。」なんて言葉が出る。
これには、倫理の教科書のソクラテスも、
口角が上がりすぎて天井を突き破っている事だろう。
ラブソングにはよく、「言葉にできない。」という表現が出てくる。
あの時、言葉に出来なかったという事実は、切ないというより、単純に辛い事だ。
名状しがたいものは、名状するまで存在しなかったのと同じだ。
その時言葉に出来なかった事を後悔し続ければ、いずれそれを言葉に出来るだろう。
スラスラと言葉を語れる人は、それだけ同じ言葉をたくさんしゃべっている。
バイトのマニュアルに「ありがとう」という言葉を機械的にたくさん言わせる物が多いのは、
それだけ、言っても損しなくて、むしろ得になる事が多い、
格ゲーで言う、出し得な言葉なのだ。
◆人は、経験でしかない。
私の持論の一つ。
私は、過去に経験喪失状態を経験していて、
自分の頭の中に、自分の経験ではない記憶が存在していた期間があるから、
こういう解釈になるのかもしれない。
人は先天的に何者でもなく、
生まれてから他の人を見て、他の人の言葉を聞いて、少しづつ人の方へ近づいていく。
赤ん坊は人ではない、という表現よりも、
生きている人は皆、未完成で、不完全だ。
完成された人が居るとしたら、それは既に死んでしまった人だけである。
という表現の方が、誤解が少ない表現だろう。
完全な健常者など、一人も居ないのだろう。
そもそも一切の欠落のない完全な人間が、一人も居ないのだろう。
むしろ、人生がその人から何を失わせ、その人がどう不完全であるかが、
その人の個性なのだと考える。
第二の誕生、という言葉があるが、
第二の誕生が、自分が何者であるか、という自己紹介の言葉を決める行為であれば、
人生というものは、いつだって第n回目の誕生をし続けている。
大人という生き物も、死ぬまで一生人を学び、人に近づこうと歩み続けている。
その過程で、何度も自己紹介の言葉のラベルを張り替える。
人が飲み会で語る座右の銘なんて、日替わりぐらいの方が面白い。
人という生き物に、そもそも一貫性なんてない。
学び、後悔し、歪み、変わり続けられる方が、生き物として断然強い。
人が作った物語の中に、不老不死に異常に拘る登場人物というのが、たまにいる。
きっと彼らは、自分の人生経験が自分を変えた事に対して、
好意的な印象を持っているのだろう。
同時に、自分の人格を紡いだ物が、自分の個人的な人生経験でしかない事を知っているのだろう。
だから、不老不死になり、無限の経験を求める。
その経験が自分を大きく歪める事を認め、人生が自分を歪める事の価値を、
高く見積もっているのだろう。
関連する言葉に、人は、人を真似て、人を学び、人になる、だとか、
教科書を読み、過去の人生に学ぶ事で、その人生の1%を共有する、だとか、
先人に学び、先人を超えろとか、とにかく色々な関連項目がある。
人間に価値は無いが、人生には価値がある、なんて言ったりもする。
人は、契約書にサインして生まれてきている訳でもなく、
人という動物として生まれた事そのものが、素晴らしい存在な訳もでもない。
筋肉の多い人間や脳の処理能力が多い人間が、人間として価値が高い訳でもない。
どちらかと言えば、人間ではなく人生をどう経験してきたかの方が価値の根源である、と考える。
私はある時、インターネットでチーム戦ゲームのチームリーダーをしていたのだが、
その時私は、飲み込みの早い一人の新人チームメンバーを、
深く考えずに「センスがいい」と褒めた。
その後、別のチームメンバーに、
「あいつは、裏で他のメンバーに個人的に教えてもらったりして、たくさん努力してるんだ。
だから軽々しく、センスがいいなんて言うな。」
と言われた。
本当にその通りだと思った。
人を褒める時に、
彼の褒めポイントを、彼の人生の外側の先天的な才能という概念のせいにするのは、
彼が辿っている人生の価値を、軽んじている事になる。
その人が辿ってきた人生を語る時に、才能という概念はノイズでしかない。
個人的な人生経験の塊と話している時に、人生ではない話をするのは失礼だろう。
人を褒めるなら、人間ではなく、人生を褒めるべきなのだろう。
私はいつだって、たくさん後悔して、新しい言葉を探し続けた。
その結果私は、頭の良さという概念アンチになった。
私に頭が良いと言うと、コミュニケーションが円滑に進まなくなる事請け合いだ。
「あいつは頭のおかしい極悪人だから人間じゃない!
よかった!人間というものの価値は高いままだ!人間って素晴らしい!」
と、人にやさしくない言葉を言うぐらいなら、
人間というものの価値なんて、ゼロで構わない。
「君は選ばれし人間だ。」と言われなければ誇れない程度の矮小な傲慢さなんて、やめちまえ。
誰が誰を選ぼうが、誰かの人生がそこにあるというだけで、
その人生の価値を、傲慢に誇りながら生きても良いはずだ。
人は、経験でしかない。
そう考えた方が結果的に人にやさしくなれるなら、その言葉には価値があるのだろう。
痛覚というものは、ないよりはあるほうが便利だ。
アツアツのフライパンを握り、アチっとなって手を離せる方が、結果的に手を守れる。
痛覚のないゲーマーは、弱いゲーマーだ。
自分が人を殴った事に気づけば、人にやさしくなる事について考えられる。
わからないものをわからないものとして扱う事には、高い価値がある。
弘法も筆の誤り、と言うが、
それがことわざになるぐらい筆を誤らなかった弘法は、
それぐらい何度も、筆を誤ってきたのだろう。
◆一生分のかにぱん。
私は幼少期にかにぱんにハマり、何か月もかにぱんを食べ続け、
もう一生分のかにぱんを食べたと感じ、かにぱんに飽きた。
小学生から東京で電車通学をし続け、
もう一生分電車に乗った、だから長野で軽トラに乗って生きる、などとも言う。
東京で勤め上げた人が、急に長野に来てワインを植えたがるし、
長野の大学生は、深夜から突発で軽自動車四人乗りで東京を目指したがる。
結局、いつも群馬の高崎観音を見て帰る。
都会人は田舎に憧れ、田舎の民は都会に憧れる。
自分の近くに居すぎる人は、鼻について嫌いになりやすいし、
自分の遠くにいる人は、いくらでも好きになれる。
私は、幼い頃から有機栽培の野菜やこだわった食べ物ばかり食わされて、
違いのわかる大人になった方が便利な事もある、と言われていた。
そして、違いのわかる大人になった結果、
朝マックのソーセージマフィンが死ぬほどうまくて、
早起きした日に20個ぐらい買いしめて、冷凍庫にストックしておく大人になった。
人間、無いものねだりなのだろう。
農業の実地研修中の私は、年の近い研修生の先輩によく心配されていて、
「お前が何をしたいかが一番大事なんだよ!」とよく言われていた。
その度に私は、へたくそな健常者のふりをしなければならない私を本気で心配してくれる彼に、
ただひたすらに、申し訳ないと思っていた。
私の最初の主治医との約束で、
私は自分が定職を得るまで、私の病気の話をする事は出来なかった。
私はもう一生分、嘘をついたのだと思う。
人が、経験でしかないのであれば、人は、飽きる生き物だ。
かにぱんを長く楽しむコツは、
かにぱん以外の物とローテーションを組む事だったのだろう。
そう思って生きた方が、生きやすい事もある。
◆ゴラム。
指輪物語の登場人物、暗闇に住み、目が悪く、耳と鼻が鋭い。
私の脳内における、暗闇に生きる者代表である。
私が、視覚情報が脳に与える情報量が少なく、
聴覚や嗅覚が脳に与える情報量が多い事を話す時、よく引用される。
異世界転生アニメなどでよく見るファンタジー世界概念における、
人・エルフ・ドワーフ、襲い来る地獄の軍勢などの概念の話になると、
指輪物語という作品自体がよく引用される。
他にも、ナルニア国物語や終わりなき物語もよく引用される。
私は、子供の頃から文庫本ばかり読んできて、漫画が読めない。
漫画のコマがどこに飛ぶのか、わからなくなる時が多い。
ただ子供の頃にテレビは見ていたので、アニメは見れる。
なので、漫画を読めない分、アニメ化を待っていたりする事も多い。
私は、頭の中の耳に残ってしまった言葉をたくさん集めて、
今の私である、バルダー果樹園を作った。
私が、文章に読点を付ける基準は、
頭の中で音読した時に、読点で区切ると語り口の気持ちが良い部分に付けている。
暗い人を表す言葉として、
阿部公房の箱男という作品も、よく引用される。
段ボール箱を頭の上からすっぽり背負ったホームレスが箱男であり、
彼らは確かにそこにいるのに、何故か人々はその段ボール箱を見咎める事はない。
箱男は、段ボール箱に開けた穴から、一方的に人を覗く。
見る事には愛があり、見られる事には憎悪がある、という表現もある。
愛する事は気持ちが良くて、愛される事は気持ちが悪いのだ。
阿部公房作品で一番えっちな作品は砂の女であり、なかなかオススメでもある。
ドストエフスキー作品で一番美しい作品は白痴であり、これもオススメできる。
三島由紀夫作品で一番関係性オタクに刺さる作品は禁色であり、これもオススメだ。
性癖とは、人生がその人に付けた傷である。と私はよく言う。
人生という経験は、木像を彫刻するかのように、人という原木を削り続ける。
原木より木像の方が、量りに乗せたらグラムが軽いとしても、
そのような人になってしまったという木像の価値を、大事にしてほしいと思う。
このように生きてしまった人生が、堪えがたいほどに私であり、
それはもう、そう思って生きた方が生きやすい、という開き直りも、
時に人を生きやすくするだろうと思う。
私は昔から、言葉を紡ぐ能力が高かったので、
小説家になった方がいい、と言われる事はよくあった。
だが実際に何かを書いてみると、私が書ける言葉は私の言葉しかなく、
面白い物語を紡ぐ事は出来ない、という事に気が付いた。
最近のYoutubeでも、エンタメ意識という言葉をよく聞く。
それぞれの人のエンタメの定義の引用元は、
バラエティ番組であったり、漫才であったり、アイドルであったり、歌手であったり、様々である。
どれも共通して言える事は、
エンタメの言葉は、人を楽しませる目的で作られたものである。という事だ。
社会人がうまいやつは、ロールプレイがうまい。
自分の役割の範囲がどこまでであり、どこが範囲外であるかを、きちんと分けて認識出来ている。
自分の頭の中の善を、誰かに上書きしようとしたりしない。
私は、人狼ゲームが生理的にNGである。
私は自己紹介の言葉が好きで、正しさを語る言葉が嫌いだ。
人狼ゲームというのも一つの試合を楽しむ為の形式である事はわかっているが、
言葉という道具を、勝ち負けを付ける為に使っている事自体が、ひたすらに不快なのだ。
正しい言葉などない。その認識が、どうしようもなく私であるからだ。
私自身が後天的に作られた人格であるからこそ、私はロールプレイが苦手だ。
私はそんな、こだわりの強い社会不適合者ではあるが、
小説家でもYoutuberでもなく、果樹農家として飯を食っていく事を選んだ。
これは、バルダー果樹園がエンタメの言葉を紡ぐ事が出来ず、
果実の品質で人を笑顔にする事しか出来ない、不器用なやつだからだ。
◆弓道の「型」。
私が、開成に弓道同好会を作る上で、
弓道の先生を買って出てくれた、近所の荒川総合スポーツセンターの弓道場に居た五段の先生が、
私に、弓道の目的を話してくれた事がある。
弓道の「型」の概念の究極は、的を見なくても矢が当たる状態である。
弓道には、的の前で弓を引いて射る、という一種類の動作しかしない。
その一つの動作を、何度も反復練習をして、
肉体的なフォームだけでなく、精神的なフォームも訓練する事で、
的を見なくても矢が勝手に当たる状態を目指すのが、弓道の「型」である。
弓道は、的当てゲームではない。
的を狙って矢を当てたいなら、現代人はシンプルな弓なんて不便な道具は使わない。
当たると思って弓を引くのではなく、
当たらないのが弓であるからこそ、弓道には何度も弓を引くだけの価値がある。
私の幼い頃の習い事に、茶道があったが、
その茶道の先生は、茶道にたくさんの細かい手順の指定がある事を、
「おいしい抹茶を飲む為に作られたもの」と説明していた。
弓道に細かい手順がある事にも、意味があるのだろう。
私は、弓道の「型」の考え方を、
農業の肉体労働や、安全運転の考え方に取り入れている。
重い物を動かせる人は、力があるのではなく、
動かしやすい持ち方や、力を加える方向を知っているだけだ。
手だけで力が足りないなら腕を使い、肩を開いて上半身を使い、足を開いて全身を使えばいい。
大げさな予備動作を取り、大げさな掛け声をかける。それも一つの「型」であろう。
筋トレと肉体労働は、目的が真逆で、効率の良い「型」も違う。
いかに体に負荷をかけず楽に物を動かすかが肉体労働で、いかに体に負荷をかけるかが筋トレだ。
力任せな仕事では、すぐに腰を痛めて仕事を続けられなくなる。
傾斜地の果樹園を歩く果樹農家は、
なんだか微妙にフラフラしているような、よくわからない歩き方をしている。
だがあれは、体の各部を振り子のようにしたり、何かにつかまってそこに体重を移したりして、
果樹園を楽に移動する事に最適化した「型」なのだろう。
果樹農家という生き物は、全身遅筋改造人間のようなものである。
◆思想。
思想という漢字は、思い、想う事と書く。
それぐらい、めちゃくちゃ感じたり思ったり考えたりする事が、思想であろう。
私は、
人が、自分の観測した人生から感じ、考えたものの全てが、
思想であると言う。
東京の駅ですれ違う、たくさんの人々には、
それぞれの人生があり、それぞれの思想がある。
長野で軽トラを運転している時に見かける、車に乗っている人々にも、
それぞれの人生があり、それぞれの思想がある。
インターネットで見かけるたくさんの人々にも、
それぞれの人生があり、それぞれの思想がある。
思想の自由は、
正しい思想などという、人にやさしくないものに、
犯されるべきではないものだと思う。
思想の自由という言葉を語る為だけでも、
思想という、初見さんバイバイな言葉を使う価値があると、感じている。
私の思想のベースは、不可知論に近い。
人は、何も知ることが出来ない。
完全な人間など、全世界の全ての人の歴史上にも一人も居ない。
他者と共有できる完全な知覚なんて、存在しない。
だからこそ、人は愚直に生き続け、がむしゃらに考え続け、悪あがきの言葉を紡ぎ続けなければならない。
人は100%に到達できないからこそ、100%に手を伸ばす価値がある。
感情と理性に違いはなく、感情も理性も思想であり、
好きが偉くて、嫌いが偉くないわけでもない。
それら思想の全てに価値がある、などと言ったりする。
嫌いは嫌いでいい、嫌いを悪いと言い換える方が人にやさしくない、と言う言葉も、
この思想の定義に関連する話である。
誰かを嫌いな自分が嫌いでも、自分が誰かを嫌いな事を認める事が出来れば、
嫌いを悪いと言い換えず、自分が嫌いな人に正義の鉄槌を下さずに済む。
それなら嫌いという言葉には、人にやさしくある為の価値があると思っている。
悪い人を殴る事は、それなりに気持ちがいい事になってしまうから、
そうならないように、考える必要がある。
冷静に考えれば、100%好きな人なんていないし、100%嫌いな人も居ない。
そこにあるのは、個人的な価値観の濃淡だけだ。
大抵の人が、好きでもあるし、嫌いでもある人であろう。
この世の中に、考える価値のある事は、いくらでもあるが、
何も考えずに信用する価値のある事なんて、一つもない。
悪人も善人も、頭の良い人も悪い人もいない。
ただみんな、それほど愚かでもなく、それほど頭が良い訳でもないだけだ。
インターネットのブロックという機能は、人にやさしい。
自分が聞いた言葉は、いずれ時間をかけて自分になる。
嫌いなものを見ながら生きれば、自分がその嫌いなものになる。
反面教師に学び続ければ、自分が反面教師になっているだろう。
自分が何を学ぶかを決める事は、自分を決めるという事でもある。
倫理の教科書の登場人物を思想家と呼び、
彼らの思想は、ハチャメチャに多様な人々で構成された人間社会全体をハッピーにしよう、
という無理難題を目的にした、おせっかいの言葉であると言う。
思想家の思想は、
最近のyoutubeの配信者の語る、生きやすい生き方の話や、
100円ショップで買えるものでクオリティオブライフが爆上がりするライフハックの話や、
宗教の定義する死後の世界の概念が、
今を生きている人を生きやすくする為に作られている事と同じように、
人を生きやすくする為に、人が作ったものである道具の一つであると、言ったりする。
天国と地獄も、輪廻転生も、
結局、今の人生を前向きに生きると死後お得ですよ、という嘘を言っているだけだ。
でもその嘘のおかげで、人が生きている事に前向きになれるなら、
そこには道具的価値がある。
最近のアニメである葬送のフリーレンに登場する生臭坊主の言葉が、
この世界観をうまく表現していると思う。
死後は天国で贅沢三昧が出来る、そう思って生きた方が、都合がいいじゃありませんか。
ドストエフスキーじみた、神は存在しないからこそ神を作る必要がある論を話すキャラクターが、
この令和の世にウケるのも、現実は小説より奇なり、と言った所かもしれない。
仏教という言葉を作ったのは、ブッダ本人ではなく、
少しでも人が生きやすい未来を願う、
ブッダに比べたら普通の人の集まりである弟子の坊主達であっただろう。
釈迦に説法された釈迦は、
きっと興奮気味に、その生意気な門下生を自室に招き、
危ない笑顔を隠しながら、彼の個人的な意見を聞きたいと思うだろう。
人の人生に干渉する事は、全て悪なのだから、
せめて悪人面をしながら、おせっかいを焼いてやろう。
◆全知の存在。
18歳までの私の思想が、目的としたもの。
人は、他人の頭の中を理解できないが、不確かな推測をする事は出来る。
そしてその精度は、自分がよく知る人ほど高く、よく知らない人ほど低い。
ならば、全知の存在に至れば、
全ての人の頭の中に対して100%の推測を出来て、
全ての人を100%ハッピーに出来る究極の思想を作る事が可能であろう。
その為に、私が考えた方法は、
人の経験に依存しない空想による知識量の+1を、無限回行う事で、
いずれ、全知と、この世のものではない多くの余分を持って、全知に至るであろう。というものだ。
もちろん、そんな事は人間の脳には不可能で、
私は脳を壊し、精神科に通う事になる。
30代になって脳を回復するまで、この記憶は戻らなかった。
私の病気は、過覚醒で、
考える事そのものに快楽が生じて、何も飲まなくても覚醒のアクセルを踏み続けられる。
カフェインなどの覚醒効果も、頭が良くなる事はなく、考える事に快楽を付与しているだけだ。
人が楽しいと思う事は人によって違うが、それは何をしたら脳快楽を感じられるかの違いなのだと思う。
もし私が生きてる間の未来に、
私の意識をパソコンに移すような電脳化技術が実現したら、ぜひ私を実験台にして欲しい。
たくさんのパソコンを接続して、壊れたら新品に繋ぎ変えながら、
私の生の脳には出来なかった、考えたいだけ考えるという贅沢を、一度体験してみたいのだ。
機械の体になれば、覚醒効果のある香りの良いコーヒーだって、飲み放題になるだろう。
だが、その香りを感じる感覚器官が付いていた肉体が無くなってしまうのは、残念だ。
機械の体に、未来の高性能な嗅覚センサーが付いていようが、
私の肉体が今まで香ってきたものの歴史が、香りという価値を定義しているのだから、
きっと機械の体で飲むコーヒーは、今ほど香り高くないだろう。
今の私が、根性論や頭の良さという概念を嫌っているのは、
人が一生で考えられる量は無限ではない事を、身を以って体感したからである。
人のMPは、無限ではない。
人の脳が、根性さえ出せば充分な思考量を得られるほど性能がいい道具であるなら、
私はとっくに全知に至って、100%の推測の下に全人類をハッピーにしていただろう。
私の得意とする武器は、病識だ。
病人が自分の病気を治そうと思ったら、まず自分が病気である事を認識し、
自分の生活に支障が出ているから病院に行く、という認識を持つ事が大事だ。
私が最初に診断された病名は、過覚醒ではなかった。
私は精神科を受診する度、A4の紙にびっちり文字を書いて、自分の病識を先生に説明していた。
私の歴代の主治医は3人居るのだが、
二人目の先生はよく、この病気の人はこんな立派な文章を書けないと言っていた。
私は10年以上かけて自分の病識を研ぎ続け、今の主治医とよく相談して、
過覚醒と言う、私の本当の病名を手に入れた。
病識は、自分の欠落を認識する道具だ。
私は幼い頃からずっと、自分という人の不完全さを感じながら生きてきた。
同時に、この世のどこにも、完全な健常者など一人も観測できなかった。
私が人を好きになる時、
この人はもしかすると完全な健常者なのではないか、という下心が発生するが、
大抵そんな事はなく、むしろその人が個人的な人に過ぎないと確認出来てからの方が、
もっと好きになれる。
人が、生まれた時から既に欠落しているものを認識するには、想像力を働かせるしかない。
欠落認識能力は、想像力をガソリンにして動くエンジンだ。
人は、果樹と違って生まれた時に生きる目的を設定されていない、という話も、
私の欠落認識能力が掴んできたものだ。
自分の頭が十分に良いと思って何かをするより、
自分の頭が悪くてもなんとかなるシステムを作る方が、効率がいい。
忘れ物をしないように頭の性能を上げようとするよりも、
忘れ物をするという前提で生き方を考える。
この考えは、バイトを雇う時のマニュアルなどでよく見られる。
人を完全なものだと思って扱う事は、人にやさしくない。
農業においても、自分が農家として何をするかを決める事と同じぐらい、
自分が農家として何をしないかを決める事が、大事だ。
人の言葉を聞く時、何を言っているかと同じぐらい、何を言っていないかも大事だ。
私が何者かを説明する言葉を決める時、私が何者でないかを語る事も、同じぐらい大事だ。
私は、就活で全ての面接に落ちて果樹農家になったが、
面接対策でよく言う、「短所を長所に変える。」という部分は、私は非常に上手だったと思う。
何も言い変えなくても、病識という道具は強いのだ。
折れない心なんて、貧弱で効率の悪いものに、興味はない。
人から感じるものの量が少なく、何も学べない事は、弱点でしかない。
せっかく人を殴ったのなら、たくさん後悔しないともったいない。
いくら悩んで、心が折れ、生きる為に自己紹介の言葉を何度書き換えようが、
結果的に、自分が生きる目的を達成できる方が、圧倒的に強いだろう。
療養中の私が、ある福祉系のテレビ番組を見た時に、
回復傾向の一人の精神病患者がインタビューされていて、
「私は病気になってよかった、今まで見えなかったものが見えるようになった。」と言っていた。
これを聞いた私は、ひどく反発したものだ。
「私は決して、望んで病気になってなどいない、お前とは違う!」と、心の中で叫んでいた。
きっと当時の私が今の私を見れば、同じように反発するのだろう。
それでも私は、考え続け、変わり続けるから、私でいられるのだ。
◆認識には、経験というコストをかけるだけの価値がある。
イソップ童話に出てくる話の一つで、すっぱいぶどうという話がある。
きつねが主人公で、手の届かない高い場所にあるぶどうを見て、
あれはすっぱいぶどうだ、と言って諦める、という話だ。
本当は甘いぶどうだったのに、きつねは愚かだ、と考える事も出来るが、
本当にすっぱいぶどうである可能性も否定は出来ないし、
そもそも、後で人がそのぶどうを食べて、甘かった事を確認したとしても、
きつねの人生にとって、それはすっぱいぶどうのままなのだ。
月並みな言葉だが、真実も、正義も、人の数だけあるのだ。
真実はいつも一つ、という名探偵の言葉も、
その名探偵の人生を表現するような、一つの真実に過ぎない。
私は、昔は客観的とか常識という言葉が嫌いだった。
だが、今はそこまで嫌いではない。
そもそも普遍的な常識など存在しないのであれば、
何が常識かを語る言葉は、自分の個人的な人生における常識を自己紹介しているだけだろう。
言葉というラベルなど、個人的に、自由に、好きに付け替えればいい。
私は、個人的な自己紹介の言葉が大好きだ。
認識というものは、人生経験が形成するものだ。
確かな存在がそこにあるのではなく、それぞれの認識がそこにあるだけだ。
存在しているという認識を、一人一人がオリジナルの物として持ち合わせているだけだ。
人の幼少期の記憶が薄めなのは、まだ人が認識を形成できるほどの人生を経験していないからだ。
記憶を紡ぐ為の認識そのものが、まだ形成されていないからだ。
価値観が人によって違い、人生の何に重きを置いているかが人によって違うのは、
そもそも人生という経験が違うから、当然そうなるのである。
だが、認識というものは人によって違うものであり、
自分の人生を観測する望遠鏡であるからこそ、
わざわざ人生経験を積んで、自分の認識というものを形成するだけの価値がある。
私が農業研修を開始したての頃に、りんごの木を見ても、
りんごの木の樹形がどうなっているかなんて、全然わからなかった。
当時の私には、緑色の壁しか見えていなかった。
ある癖の強いりんご農家が、
農協が講習会で言っている事は全て自分なりに咀嚼しろ、その上で農協の言っている事と違うことをしろ。
なんて言っていた。
何も学ばない段階でオリジナリティを主張しようとすると、
目的が、品質ではなくオリジナリティの方になってしまう。
多くを学び、自分なりに最強の品質を定義した結果、
オリジナリティというものは、結果的についてくるものであろう。
個性的であろうとする事で、個性的な人生を送る事が出来る、というよりは、
堪えがたいほどに自分そのものになってしまった人生という結果が、
個性的な人生だったと、後から呼ばれるのだろう。
例えば、何事も50%ぐらいがちょうどいい、という言葉を語るのであれば、
0と100の所在を確認しないと、正確な50%の位置を指し示す事は出来ない。
認識というのは、どこまで行っても相対的で、個人的なものだ。
ゲームで勝てるようになるコツは、たくさん負ける事だ。
実際の試合時間の中で人がアドリブで考えられる量など、大した事がない。
天才と呼ばれた人が10分で考えた事より、普通の人が一か月考え続けた事の方が質は高い、という単純な話だ。
試合の前にたくさん準備して、認識を体に染み込ませる方が勝率を上げられる。
試合というのは、双方の準備してきた全てのものを突き合せる、答え合わせのようなものだ。
答え合わせをしないと結果がわからないから、答え合わせは楽しいのだ。
◆ユープケッチャ。
阿部公房が作り出した、実在しない空想上の虫。
フンコロガシの親戚のような虫で、一点をゆっくりと旋回しながら、
自分の出した糞を食べ続ける事で、外部と一切関わらず生きていける虫。
もちろん空想上の虫であり、そんな閉鎖生態系は存在できないのだ。
私が、完全な閉鎖生態系は存在しないと話す時、よく引用される。
人が、人に迷惑をかけず一人で生きていきたいと思う願望の話で、
実際の所それは無理だ、という話をする時によく出てくる。
果樹園の中で何かを循環させるのが良し、という話に反論する時、
果樹園は閉鎖生態系ではない、と言ってユープケッチャが出てくる事もある。
地球だって、太陽の光が無ければ生き物は生きていけないのだから、
地球全体でも、閉鎖生態系とは言えないのかもしれない。
環境保護、という言葉の目的は、
未来の人類が環境資源の枯渇によって困らないように、という部分であり、
環境保護という言葉が、自然を愛しているように聞こえすぎたから、
持続可能な社会という、より人を主軸にした言葉に代わっていった。
家庭内暴力、という言葉が使われなくなっていった歴史と同じだ。
家庭内、という部分が強すぎて、それが違法であると認識しづらい言葉であるからだ。
価値というものは、人が認識し、定義しているものである。
人の認識というものを抜きにして、急に自然が価値を与える事など、あり得ない。
原始人が初めてぶどうを見つけた瞬間があったとしても、
人の側にぶどうをどう使うかという認識が無ければ、そこにぶどうの価値が発生しない。
ユープケッチャは、決して存在しないからこそ、
人は、人と関わりながら生きていくしかない。
バルダー果樹園は、自然ではなく人の価値を認めていきたいと思っている。
◆多様性は、守るものではなく使うもの。
私が多様性という言葉を使う時、
生物の増え方の話で、有性生殖と無性生殖がある、という話をする。
無性生殖は、大腸菌のように自らのクローンを大量に量産する方法であり、
有性生殖は、多くの動物がそうであるようにオスとメスの遺伝子を混ぜ、
手間をかけて一人の子孫を作る、という方法である。
生物の増え方としては、有性生殖は圧倒的に効率が悪い。
それでも現代の地球では、有性生殖の生き物が幅を利かせている。
何故そうなっているかと言われたら、
有性生殖により、いろんなやつがいる状態を作り出した事そのものが、強いのだ。
急に地球の環境が変わって氷河期が訪れても、今まで役に立たなかった寒さに強い個体が生き延び、
種としての絶滅を防げたりする。
多様性は、守るものではなく使うものだ。
いろんなやつがいるという事が、それだけで、生き物の状態として強いのだ。
果樹は、自分の人生の目的を、種の繁栄から書き換える事が出来ない。
だが、人は人生の目的を設定されずに生まれてくるから、目的を設定し、道具を作れる。
生きる理由を持たず生まれ、自分で生きる目的を決められるという事は、
果樹に比べれば、贅沢で多様な生き方だろう。
人生が複雑で多様である事は、人の生き物としての強さであろう。
◆平等とは、全ての人生の価値が最強すぎて、比べられない事である。
平等とは、均一化ではない。
全ての人が同じようになるような操作は、少しも平等ではない。
全ての人生の価値が、最高で最強であるという事が、平等だ。
人が瞬間的に考えられる量など、IQ3以下の量しかないだろう。
初めて将棋に触れて、いきなり二手先三手先を読める人なんていない。
だが、弓道の反復練習のように何度も一手先を読めば、
何も考えずに手癖で一手先を読めるようになる。
そうすれば、今度は二手先を読む方に意識して考えるリソースを割ける。
たくさん考える事で、何かを考えずに、何かが出来るようになる。
私は、知識そのものには価値がないと言い、
言葉に神経を刺して、道具として使えるようにする事の方が大事だと語る。
私は、あいまいでてきとうな数字で構わないから、
自分の人生の目的にパーセンテージを付ける練習をする事は大事だと語る。
そこには、人生という可能性の価値が無限にあるだけだ。
ゲームを楽しむにはルールを設定する事が必要だったり、
数学のはじまりには、証明できない公理を設定する事が必要だったりするように、
思想を採点するなら、思想という道具に何らかの目的の設定が必要で、
思想そのものに対して、絶対的な採点をする事は出来ない。
老人は辿ってきた道の長さを誇り、若人はこれから歩める道の長さを誇ればいい。
その上で、全ての人が、最後まで最高の人生を送ればいい。
全ての個人的な人生の価値が、最高すぎて比べられないから、
人生という可能性の価値は、平等なのである。
人が教科書を読めば、過去の誰かが語った言葉を学ぶ。
そして、過去の誰かの人生経験の1%を共有できる。
中国4000年の歴史にも価値があるし、西暦2000年の歴史にも価値があるし、
インターネット何十年の歴史にも価値があるし、
誰かの個人的な人生の一部の直近5年ぐらいの歴史にも、ちゃんと価値がある。
人の頭が一生で考えられる思考量なんて、大した事はないかもしれないが、
先人に学ぶ事で、自分一人の一生分の思考より多くの経験を継承できる。
先人に学び、先人を超えてきた繰り返しが、
人を豊かに、より生きやすくしてきた。
死後の世界という概念を信じられなくても、今を生きる事に前向きになりたいなら、
誰かの人生が紡いだ誰かの言葉が、
次の世代の可能性を広げるような言葉の一つになると思って生きてみるのも、
一つの有効な手段かもしれない。
道具など、たくさんあればあるほどよいのだ。
君は既に何でもできる、という言葉は流石に嘘かもしれないが、
君はこれから何者にもなれる、という言葉は嘘ではないだろう。
結果的に、未来の君は一つしか存在しないとしても、
それは、たくさんの未来の君の可能性の中から、君が選択したものであろう。
むしろ、結果的に未来の君にならなかった可能性の君がたくさんあった事を、
誇っても良いのではないのだろうか。
たくさんの可能性を捨てた事自体が、とても贅沢で、素晴らしく人らしい事だ。
どうせ、後付けで自分の人生全部が自分の責任になってしまうなら、
最初から自分らしく生きておくというのも、一つの対抗策だろう。
◆おらっち。
古い長野の方言の一つであり、自分の領域を表現する言葉であるが、
土地の境目や人との関係性など、物理的精神的問わず様々なものにおいて、
自分の人生の範囲を規定する時に使われる言葉だ。
長野の古い方言は、現在の長野県でも60歳程度の若いおじいちゃんからは聞くことができない。
最低でも70歳以上の年季に入ったおじいちゃんからでないと、聞けない言葉だ。
語感からズーズー弁とか呼ばれたりする。
例えば、東京で暮らしていると、
自分の人生の範囲というものは、存在しないかのように思える。
公共の場である駅に行き、公共交通機関である電車に乗り、会社の所有物である職場で働いて帰る。
自分の部屋ぐらいしか、自分が優先権を持っている空間がない。
他人に自分の個人的正義を適応したくなる気持ちも、わからないでもない。
精神的な意味で、他人が近くにたくさん居すぎて、
自分の生存の為に、人を殴らざるを得ない事も多くなる。
東京の生活には、
ここは絶対に自分が優先権を持つ、自分の人生の範囲だというサンクチュアリのような逃げ場がない。
その点、田舎の車社会には、自分の人生の範囲の境界線を認識する機会が多い。
例えば、一人一台軽自動車に乗って移動している田舎民は、
車の中を自分好みにデコり、車内を完全なプライベートスペースにしている。
仕事の休憩時間は、自分の車の中というサンクチュアリに逃げ込む事も出来る。
農家になると、
この範囲の中が自分の人生の範囲の果樹園であり、
その境界より先の別の人の土地は、その人が自由裁量を持っている土地である。
という意識が強くなる。
自分の農地の中の事に対しては、カタギに見えないぐらいガラが悪くなる事もある。
自分の農地の外の事に関しては、寛容というより他人の人生の自由裁量への恐れを抱いている。
日本の法では人を殺すと投獄されるが、
日本で生きていても、人の精神はその人のおらっちだ。
法を守る事が自分の人生の目的達成効率において得ではないと考える事も、その人の自由裁量であろう。
人生の目的が、明日のパンを得る事たった一つしかない人にとって、
パン屋を殺してパンを奪う事は、あまりにも合理的だ。
刑務所とは、服役している人の将来の人生をより良くする為にある施設であろう。
実際に全てがその通りになるかどうかはともかく、
それを目的に作られた施設だと、私は思う。
私は、80歳まで果樹農家を続けるという人生の目的があるから、
積極的に法を守って生きる事の価値を認めているだけだ。
明日死んでもいい人には、法を守るメリットはあまりないのだから、
自分も長生きをして何かをしたいと思える社会の姿には、
人を生きやすくする道具的価値があるだろう。
それぞれのおらっちである、物理的精神的を問わない人生の範囲を認識する事は、
人の人生の価値を認める為の、スタートラインのようなものだ。
自分のおらっちを守る為なら、人は人生というコストを全部直列に繋いで、とんでもないパワーを出せる。
だからこそ、他人のおらっちを恐れ、
他人と交わす約束の中に、選択肢としての逃げ道を用意しておくのも、一種のやさしさであろう。
追い詰められた獣を恐れるなら、そもそも追い詰めないのが、一番手っ取り早い。
◆人間社会という器。
人間社会というものは、人と人が交わした言葉による約束の数々が、
積もり積もって形成された、山のようなものだ。
私が人間社会という言葉を語る時、
色んな奴がそれぞれ違う事をする事をして生きていけるようにする事で、
相乗効果を生み、社会全体が豊かになる、という話をする。
同時に、過去の人々が作ってきた道具を継承しているから、
時代が進むにつれ、人は確実に生きやすくなってきたとも言う。
金とか法とか国の話も、よく関連して出てくる。
金というものがない場面を想像して、
果樹農家が赤いツナギを買いたいと思っていたとしても、
作業着メーカーの人がりんごを必要としていなければ、物々交換は成立しない。
ところが金という道具があれば、
りんごが欲しい人にりんごを渡して金と交換し、その金で赤いツナギを買う事が出来る。
分業という言葉は、単純ではあるが非常に強力だ。
人間社会全体においても、分業をした方が効率がいい。適材適所という言葉もある。
金というものがあるから、最高の絵を描く事しか能がない特化型の職人が生きる事が出来る、なんて言う。
大統領という職業がどれだけ偉かろうが、
大統領しか居ない人間社会は、少しも持続可能な社会ではないだろう。
企業が社会に存在している理由は、別に売り上げの一部をどこかに寄付をしているからではない。
企業が何らかの商品を売っている事そのものが、その企業の最大の社会貢献なのだ。
企業の目的は、儲かる事よりも継続する事である。
企業として継続する為に、儲かる必要があるのである。
長野の民にとっては、軽トラでいける範囲にその店があるだけでも、ありがたい事なのだ。
どうしても消えてほしくない定食屋があれば、たまに食べに行って、きちんと金を払うといい。
人が人を殺す事にペナルティを設ける事で、
互いにわけのわからない人と人とが共闘しやすくなるから、
法もまた、人を生きやすくする為の道具だと言う。
わたくしの刑と書いて私刑を禁止するのは、法という概念の基礎であろう。
個人が個人を裁いて良い状態は、ただの無法状態である。
言葉による暴力の定義は非常に難しく、今後も人の歴史の課題であるとは思うが、
ネットで炎上とか呼ばれるものは全て、
炎上させている大多数の方が、趣味で私刑を行っている不届き者だと解釈している。
本当に人を殺したてほやほやの人だって、
その人を警察ではない誰かが痛めつけて責任を取らせようとすれば、
それを私刑と呼ばずに、なんと呼ぶのか。
インターネットで言葉で人を殴れば、玄関先に警察が来るのは、
太古の2chの時代から、変わらない。
現代の法は、目には目を、という程単純ではないが、
精神の自由や思想の自由という法の目的を示す言葉が、
急にどこかに行って消えない限り、
個人が個人らしく自分の人生を選択する権利を奪おうとする暴力には、
寛容な態度を示さないだろう。
法が複雑なのは、それが試行錯誤と継ぎ足しの連続で出来た秘伝のタレだからだ。
正しいから法なのではない。
ルールを設定する事自体に、人を生きやすくする道具的価値がある。
配信者が個々に自分のチャンネル内のルールを作るのは、
その方がチャンネル全体が生きやすいと判断しているからだ。
私が、果樹園への不法侵入者をバラバラにしてりんごの木の下に埋めなくて済んでいるのは、
法であるとか、警察であるとか、
他にも役場税務署保健所農協その他諸々の関係機関の協力のお陰である。
昔のテレビ番組で、凄惨な事件が起きた後に、被害者は一度警察に相談しに行ったが相手にされなかった、
と言って警察を言葉で殴り散らかしている場面があった。
だが、警察だって国に雇われているだけの人だ。
そして人というものは、一度言葉を聞いて何かをわかるほど高性能には出来ていない。
地元のワイナリーの売店でバイトしていた時、
指導役の人に、わからなかったら何度でも聞いてくれ、と言われて、
私は嬉しくて、メモも取らずに同じ事を五回は聞いた記憶はある。
実際、頭の悪い私でも五回も同じ事を聞いたら体が覚えてしまった。
怒りは五秒しか持続しない、という言葉を聞いた時は、凄まじい違和感を覚えたものだ。
私の怒りは、言葉を聞いて五秒程度では、そもそも発生しない。
聞いた言葉を二週間ぐらい考えて、許せない言葉だと感じた時に、初めて私は怒りを覚える。
そしてその怒りは私そのものの一部になってしまい、五秒で消えるわけがない。
本気で警察になんとかしてほしければ、
一度と言わず、二度三度、それでダメなら四度五度、何度も相談に行くといい。
ガチャは出るまで回せば出る、というインターネットオタクのイカれた言葉があるが、
どうしても必要なら、目的が達成されるまで人生の時間というコストを賭け続けるのも、
一つの効率の良い選択だ。
実際、警察に相談してみると、どんな事でも110番を躊躇わないでくれと、よく言われる。
バルダー果樹園が、法を守り、果樹農家としての人生を続けたいのなら、
110番をかけ慣れてしまう事も、一つの効率の良い選択だった。
私が法をバッチリ理解しているなら、そもそもそっちで飯を食った方が早い。
農家という法を解さぬ獣でも、法を守って生きられるように、各関係機関が存在するのだ。
酒類販売管理者とか、露店営業許可の為の食品衛生責任者とかの講習会において、
最も大事なのは、「私は法の全てをわかるわけではない。」という事に気づく事だ。
「お前らわかってないだろ!!」と気づくような事を講習会でたくさん教え、
「じゃぁ逐一税務署なり保健所なりに相談に来いよ!!」というのが、
講習会の意義だと考えている。
国という概念も、約束によって多くの国民の合意をかき集め、
実在しない富士山よりもでかい巨人のような強き存在、国さんという概念を作っている。
実在しない巨人である国さんは、直接国民に何かのサービスを行う事が出来ないからと、
国に雇われて公共サービスを行う者が、公務員と呼ばれる。
人は、自分の人生の有限な時間を、約束に基づき労働する事によって、対価としてお金を得る。
公務員が自分の稼いだお金で薄い本を買っても、国が税金で薄い本を買った訳じゃない。
最高の価値を持つ個人的な人生の一部を切り売りして金と交換しているのだから、
金というものは、自由に、大切に使っていいものだ。
金も、法も、国も、物理的な道具ではなく、概念や認識に近い精神的な道具だ。
人々が約束を交わす事で、人を生きやすくする為に作られた道具だ。
1000円札という紙切れが1000円の価値を持っているのは、
人間社会全体が、そういう約束をしているからだ。
だからこそ私は、言葉による約束というものを重んじる。
武士ではなく商人として生きるとか、義理を重んじ人情を排す、などと言ったりする。
嘘をつかない事よりも大事なのは、自分が吐いてしまった言葉を嘘にしない努力である。
また、私はカプ厨なのだが、
人間社会という器は、カップルの最大最強版だと言ったりする。
お人好しも、ここまで来るとイカれているのである。
◆人にやさしく。
私の考えるやさしさとは、たくさん考える事である。
人にやさしくしたいという気持ちのままに人にやさしくする事は、人にやさしくない。
人におせっかいを焼きたがる気持ちそのものは、粗暴で人にやさしくないものだ。
善意で人を傷つけた人ほど、そんなつもりじゃなかったという不幸そうな言葉を使う。
結果的に人にやさしくなるようにするには、
長い時間、広い範囲、たくさんの仮定を持って、考えなければならない。
考える範囲を物理的にも時間的にも広げる意識を、
ことわざの説明によくある「めぐりめぐって」という言葉を引用して語る事が多い。
長い時間、多くの人、あらゆる可能性の事を考える事そのものが、人にやさしい。
一人の人生の一瞬を切り取り、その一つの結果しか考えない事は、人にやさしくない。
自分が過去に犯した一つの罪を見つめていても、人生は生きやすくならないが、
自分が過去に犯した膨大なたくさんの罪を比較して、共通項を括ったり帰納演繹を繰り返すと、
人生が生きやすくなるような認識が得られたりする。
たくさん考える方が、結果的に人にやさしくなれる。
滅私奉公は、決して人にやさしくない。
全ての多様な人生を生きやすくしたいのなら、
その全ての人生の中に、自分の人生も入れた方が、
より考える範囲が広がり、めぐりめぐって人にやさしくなる。
18歳の私は、精神の不調が生活に支障が出るレベルになったので、
精神科の受診を希望した。
だが、当時の私が18歳であるという理由で小児科に送られ、
軽い鬱だ、よくある事だ、と言われ、抗うつ剤を処方された。
結果的に私に必要だったのは鎮静剤であり、
この時に、私の生まれ持った人格は粉々になって消えてしまった。
何が人にやさしくなかったかと言われたら、
私を個人として扱わず、18歳そのものとして扱った事だろう。
私の人生において、私が傷ついた事があったとしても、
その99.99%は、私の不完全さが故の自業自得だった。
昔から、周囲の人々には異常に恵まれた人生を送ってきたラッキーボーイだった。
5000兆倍恵まれた人生を台無しにする、5000兆倍どうしようもない私が居ただけだ。
カラオケに連れていかれても、ガガガSPの卒業を大声で一回歌って喉を潰す事しか出来ない私を、
大学時代の私の周りの陽キャ達は、飽きずにカラオケに連れ出してくれた。
ただ唯一、私の責任ではない範囲から私にナイフを刺してきたのは、
この小児科医の処方した抗うつ剤、ただ一つだっただろう。
人を個人的な一人の人として扱わない事は、人にやさしくない。
私は、ゲイをゲイとして扱う事も好きではない。
ゲイの中にも、三島由紀夫みたいな尖ったタイプもいるし、どういう男が好きかも人によって全然違う。
ゲイの人に、俺を襲わないでくれよ、と言う男は想像力が欠如しているし、
ゲイの人に、例えば君は三島由紀夫のようなタイプかい?と聞き始めるのも、
それはそれで興味津々過ぎてイカれている。
それならいっそ、ゲイという概念ではなく、君という個人として扱った方が効率がいいだろう。
自分が思う最も美しい仏像が彫りたいと思う仏師に、
あまり美しい仏像を彫ってはならない、と強いる事は、
人の歴史を逆行しようとしているように思える。
自由の結果の一部が、自由を脅かす暴力と定義されて法により制限を受けるだけで、
結果が出る前から人の精神の自由を規制しようとする事は、あってはならない。と考える。
車椅子をカッコイイと思う事は不謹慎だ、と言い続ける事で、
実際に車椅子が必要な人の人生に、どんな生きやすさが発生するというのか。
むしろカッコイイ車椅子に対する執念に近い欲望が、カッコよくて安全で使いやすい車椅子を作ったら、
その方がよっぽど、人を生きやすくしているだろう。
食品ロスの話題の時だけ農家の事を思い出して、
農家さんごめんなさいなんて言われるよりは、
こだわりのうまいもんを食べて気持ち良くなりたい時に、
果樹農家の事を、思い出して欲しいものだ。
果樹農家という言葉が、人の精神の自由を縛る為の言葉として使われるぐらいなら、
果樹農家という言葉を、個人的な精神を回復させる道具を作る人として認識してくれた方が、
果樹農家としては、うれしく思う。
少数派を少数派として扱うのは、そもそも自称多数派側の想像力の欠如であろう。
人は全員、自分一人しかいない少数派に属している一人の人でしかないのだ。
私は私でしかない人が、たくさん共存しているのが、人間社会だ。
自分の意見が急に一万人の総意に成り代わる方が、よっぽど危険なのだ。
一人の嫌いは、人を殺さないが、
実在しない頭の中の一万人の悪いは、簡単に人を殺せる。
人は案外、精神的な成分の割合が大きい。
人ってのは、HPだけじゃなくMPが0になっても死ぬタイプのモンスターだ。
そう思って言葉を使う事も、一種の安全運転であろう。
全ての人を個人として扱えばいい、私の言いたい事は、ただそれだけだ。
私は私の自己紹介の言葉を語り、君の個人的な自己紹介の言葉を聞こう。
人は皆、人生が違い、認識が違い、思想が違い、目的が違う。
そう思って言葉を交わす。
それこそが、人と人との関わりのはじまりであろう。
その人がその人であるという理由では、私は人を殴らない。
人生の可能性を追い詰められた人にとって、
人を殴ってでも自分が生きる選択をする事は、非常に合理的だ。
仮に私が人を殴らざるを得なくなっても、私はその理由を、その人の人生や思想のせいにはしない。
君が君であるという理由では、私は人を殴らない。
どうしても人を殴るしかないのなら、せめて私は、私が生きる為に人を殴ろう。
私が人を殴るのも、私がお人好しで人におせっかいを焼き続けるのも、
君の為ではなく、私の責任の下で行われる、私の為の行為であってほしい。
責任という言葉は、人を殴る為の言葉ではなく、人を殴らない為の言葉だ。
◆百姓。
農家の別名で、百姓という言葉がある。
ある農家が、
百姓という言葉は、百種類もの仕事ができないといけないという意味だ、と言っていた。
この解釈は、バルダー果樹園が昔学校で学んだ百姓という言葉の意味とは違うが、
確かに農家は、農業らしい事だけでなく、本当に様々な仕事をしなければならない。
正しい言葉よりも、道具として使える面白い言葉に、価値があると思う。
これは、学校で教わる内容が、直接的に職業に役に立つ知識ではないが、
広く浅く教える事で、生徒が自ら考えるきっかけを与えているのと、構図は似ている。
いろいろな生徒がいて、未来の事は先生にもわからない。
だから先生は、多くの言葉で生徒の脳を刺激し、考えさせる。
先生は、先に生きただけの人であり、先生は偉いから先生になっている訳ではない。
だが先に生きた人の言葉には、人生という価値があるのだ。
とりあえず具体的な夢が無ければ、一旦東大を目指しておけ、
というのは、案外人にやさしい言葉だと思う。
もちろん、結果的に東大に受かるかどうかなんてどちらでもいい。
東大に受からなくても人生の価値が下がる訳でもないし、
東大を出てからサーカスをやり始めてたって、たくさん学んだ経験は無駄にならない。
広く浅く、たくさん学んで考える事に価値があるのだ。
教養という言葉は、あまり好きじゃない。
この言葉が世で使われる時、非常に知識に偏った形で学びを表現している事が多い。
何かを学び、何かを感じ、何かを考えたという経験にこそ、価値があると思う。
たくさん学んでたくさん忘れるなんて、
人として、とても文化的で贅沢で、誇らしい事じゃないか。
将来の自分が自動車を整備したいなら、専門学校に行くのは非常に効率的だが、
自分が将来何をしたいかわからないなら、広く浅く、たくさん学んでおいた方がいい。
格闘ゲームで言うファジーガード、明確な根拠となる読みのない、あいまいなガードの考え方だ。
私は、ずっと将来の夢が無かったし、
自分が果樹農家になるまで、自分が果樹農家として生きるかどうか、ギリギリまで悩んでいた。
むしろ人生経験の少ない若い頃から将来の夢が決まっている方が、不自然に思える。
20歳を過ぎても、自分が自分を大人を思っていなければ、自分を大人と呼ばなくてもいい。
私が自分を大人と呼び始めたのは、30歳を過ぎてからだ。
30歳を過ぎても童貞の男性は魔法使いになる、
というようなインターネット都市伝説があるが、
どれだけ精神科に通院していても、10年以上治らなかった経験喪失状態が、
30歳を過ぎて急に治り始めたのなら、それを一つの魔法と呼んでも良いかもしれない。
だが、そもそも魔法なんてものは、情報の蓄積が生み出す奇跡のような事柄である。
私は、魔法を使えるようになるまで、言葉を食べ続けただけなのだろう。
人は、目的を設定する事で、道具を作り、道具を使えるというだけだ。
私が、自分を30代男性と呼ぶ時、
そこには、人生経験30年分全てに、ようやく神経が通ったという喜びがある。
私が私である、という事は、私の人生にとっては珍しい事なのだ。
私は、開成に居た頃も、アルカンヴィーニュに居た頃も、
一切ノートを取らずに寝ていたし、記憶力が悪くテストの成績はいつも悪かった。
でも、耳は起きていて、ずっと先生の言葉を聞いていた。
自分の頭の性能は低いから、ノートを取る事に集中したら先生の言葉が聞こえなくなる事を知っていた。
学校で学ぶ目的が、将来の自分の人生の為だと明確に意識していた。
将来どの言葉が役に立つかわからないからこそ、たくさんの言葉を聞く事に専念していた。
人は、忘れたくない事を忘れてしまうし、忘れたい事を忘れられない生き物だ。
だが、実際に目の前の問題に対して新しい認識が必要な場面になれば、
案外、既に忘れてしまった、いつか誰かから聞いた頭の中の言葉が、
必要に応じて呼び起こされたりする。
私の父は、私が幼い時に、
「五年より先の事は誰にもわからないから、好奇心を失ってはならない。」と言っていた。
教育と称して、幼い私にWindows95のPCを買い与えたり、
インドア派の私を引きずるように、旅行に連行したりしていた。
考え方が脳筋すぎる気はするが、悪い脳筋ではないだろう。
ダイヤルアップネットワークのインターネットは、
画像ファイルを一枚表示するにも凄まじい時間がかかり、
かつインターネットは繋ぎ放題ではなく、
当時のネット民は、一日一時間ぐらいのプランでインターネットをしていた。
ネットがネットらしくなってきたのは、ADSLぐらいからだろうか。
それでも昔のネットにとって、画像ファイルは少し重かった。
それなのに、当時のネットには、
面白いホームページには、画像がたくさんないといけない、
という風潮があったように思える。
その時に革新的だったのは、侍魂というテキストサイトだったと思う。
もちろん画像が無い訳ではないが、コンテンツのメインは間違いなくテキストであろう。
今で言えば、ブログという概念があり、
文字だけで面白いホームページなんて、当たり前だ。
でも、あの頃はそれが当たり前でなかったから、テキストサイト、という言葉があった。
インターネットにおいて真実なんていくらあってもいいが、私の中の真実では、
ブログという概念の走りは、侍魂であったと信じて疑わない。
アカウントさえ作れば、誰でもブログを作れる。
自分でサーバーを管理しなくても、自分のホームページを持てる。
それは、一つの時代の転換点であったように思える。
今のYoutubeが、アカウントさえ作れば膨大な動画をネット上に保存しておけるのは、
未だに、手品か何かのように感じてしまう。
未来の事は、誰にもわからない。
百姓に必要な100種類の仕事の内訳も、時代や場所や目的が違えば、変わってくるだろう。
わからないからこそ、たくさん感じ、考えておく事が、
百姓にとっては大事なのだと感じる。
昔の私は、現代におけるスマホのような万能便利端末が、
未来においては、腕時計の形をしているものだと予想していた。
東京の駅から公衆電話コーナーが消えるなんて、少しも予想出来ていなかった。
最新の音楽は素晴らしいものが多いと思いながら、
幼い頃に聞いた井上陽水や中島みゆきやスピッツの曲を繰り返し再生してしまう。
初音ミクの曲を聞いたり、最近のアニソンを聞いたりする合間に、
私の魂に刻まれた何かが、どうしても昭和的な曲を聞きたくなってしまう。
小学生の時、塾の帰りの電車のホームで、
ある鉄道オタクの友人が、カセットのウォークマンを持っていて、
私の片耳にイヤホンを当て、モーターマンの曲を聞かせてくれた。
初めて機械で音楽を聞くという経験をした感動は、今でも忘れられない。
その結果私は、レンタルビデオ屋でCDをレンタルして、自分好みのMDを量産するキッズになった。
幼い頃から当たり前にネットがあり、スマホがある時代の若者の気持ちは、
私にはよくわからなくて、当然だろう。
人は、経験でしかないのだから。
私は、ネットで若者からおじさんと呼ばれる事が多い30代男性である。
おじさんと呼ばれすぎて、おじさんの自覚が出来て、
結果的にバルダー果樹園の眼鏡が、丸眼鏡になった。
老害は老害の自覚を持って生きる、というのも、百姓の100の仕事の一つぐらいには入るだろう。
◆関係各位。
私は、友達という言葉が好きではない。
友達という言葉で括られる関係性の多くは、
相手の人生に自由裁量に対して、何らかの操作を行っても良い関係性である事が多い。
また、友達になるという事は、大抵互いの同意の上での約束を介していない。
私はそのような関係性が、人にやさしいとは思っていない。
私は、誰かの相談に乗る事は出来て、色々な言葉を並べて言語化の手伝いをする事はできても、
その人の代わりに、その人の人生を決定してやる事は出来ない。
人に何かを強いるなら、まず互いの同意の上で約束を交わす。
互いの人生の目的達成効率において利があるから、人は共闘する。
私は大学生の時、体も頭も弱く、四年間で大学を卒業できる自信が無かった。
だから私は、大学の入学式の帰りに一緒の電車になった一人の陽キャと、約束をした。
私は教科書を読める、お前はコミュニケーションが出来る、
だから二人で協力して、この大学を卒業しようと。
結果的に、その言葉の通りになったが、
私が彼を友達と呼ぶ事は、この約束の価値を下げる行いだと感じている。
彼は、コミュニケーションのコツを、相手に興味を持つ事だと言っていた。
彼自身、自分は上手に言葉を選べていないと言っていた。
それでも、そもそも相手を知ろうとしなければ、コミュニケーションは始まらないと言っていた。
私の大学のゼミの教授は、マーケティングの授業の際、
人を気持ちを感じる事は出来ないからこそ、人の行動の結果をよく見て、人の気持ちを考える、
という言葉を語っていた。
人生の時間というものは、有限で貴重なコストであろう。
だからこそ、人と向き合う時に、人生の時間というコストをかけるというのも、
人に対する一つの礼節なのであろう。
私は、私と約束を交わし、互いの人生を共闘する関係性の全てを、
関係各位と呼び、彼らを大切にしようと考えている。
◆生きる理由。
葬式という道具は、生きている人の明日を生きやすくする為に存在している。
死んでしまった人そのものが、生きやすくなる訳ではない。
オフィスで急に号泣して発狂しているオフィスワーカーが居たら異常事態であるが、
葬式という特別な場であれば、泣いたり発狂しても許される。
葬式でしみじみと故人を偲ぶのは、早く涙を流す為だろう。
誰かが居なくなった実感を手っ取り早く獲得する方法は、涙を流す事だ。
その結果、残されて今を生きる人の明日が生きやすくなるなら、
そこには、道具的価値がある。
食べ物を食べる時に、手を合わせ、「命をありがとう。」と言ったとする。
だが、実際にベーコンにされた豚さんにとって、この言葉は何の償いにもならない。
そもそも、罪という言葉は、法による罰を与えるかどうかの基準を示す言葉であって、
犯してしまった罪には、償いなど存在しないのだと思う。
人を殴った人が改心して、後で周りから聖人と呼ばれていようが、
その時殴られて出来た傷を持って生きる人にとって、
それが何の償いになると言うのか。
刑務所というものは、被害者の為でなく、受刑者のその後の人生の為にある。
だが、ベーコンにされた豚さんに償う事は出来なくても、
「命をありがとう。」という言葉には、人を生きやすくする価値がある。
人が生きるために命を奪う事を、自分に対して説明する言葉なのだ。
一寸の虫にも五分の魂、なんて言葉があるが、
一寸の虫にも、10割の魂が入っていると考えている。
それでもバルダー果樹園は、果樹農家として草を刈り、菌や虫を殺し、
地元の猟師に頼んで、鹿やハクビシンを殺してもらう。
奪われる命には、償いなど存在しない。
だからこそ私は、生きている者達に、命を奪う理由をきちんと語ろう。
私は、最高に人にやさしい、最高に香り高い果実が欲しいのだ、と。
鎮魂歌なんて言葉は、自己満足でしかない。
だが自己満足には、人を生きやすくする価値がある。
ドストエフスキーは、自己欺瞞という言葉が大好きであったが、
長く使い込んだ自己欺瞞の言葉は、いずれ自分そのものになるだろう。
自由には責任が伴う、と言うのであれば、
自分の人生に無責任にならない為には、自由に考え、納得して選択して生きるしかない。
その結果、いくら後悔しようが、
人生の最後に訪れる、どうしようもない後悔の量を最小化できれば、それでいい。
どうしても負けたくない、たった一つの試合の為に、
他の全ての試合に負けても構わない。
めぐりめぐって、遠い遠い未来の話に、自分の人生の目的を設定するという事は、
どちらかと言えば、祈りに近い。
生きるか死ぬか迷っている人にとって、最も切実な生きる理由は、
今見ているアニメの続きが見たい、とか、できるだけ近い範囲の事だ。
ドストエフスキー作品では、よく登場人物が拳銃自殺しているが、
実際に昔の私の手元に拳銃があったら、
私はスヴィドリガイロフやキリーロフのように、拳銃自殺をしていたかもしれない。
そもそも自殺が出来た人なんて、ラッキーな人でしかない。
たまたま勢いで屋上から飛び降りて自殺出来た人だって、
今まさに地面に激突し死にゆく最中には、きっと後悔し始めていると、私は信じている。
死にゆく瞬間に走馬灯が見える、という嘘を考えた人は、
きっと、できるだけ人には生きていてほしいと強く願った人だったのだろう。
屋上から飛び降りようとしている人と、それを止めようとしている人が居る場面を想像する。
止めようとしている人は、
「とりあえず生きていれば何か良いことがあるかもしれない!」と叫ぶ。
飛び降りようとしている人は、
「どうせ生きていても悪い事しかない!」と叫ぶ。
未来の事なんて、誰にもわからないのだから、
全知の存在でもないのに、全ての可能性を想像しきった気になっている愚か者は、
飛び降りようとしている側の主張であろう。
医者の仕事は、肉体の死によって人の思想を奪わせない事だ。
医者という仕事は、冷徹に機械的に人を最大限生かし続ける仕事をしてくれるぐらいの方が、
医者にかかる側の人として、わかりやすい。
トロッコ問題が示す通り、人の生き死にを決めて良い人など、誰もいない。
自分を殺しても良い人だって、誰もいないと決めた方が、人が生きる上で都合が良い。
明日死んでもいいという無責任な人に、来週までの見積もりを頼む事は難しい。
根本的な延命にならなくても、痛みを和らげる治療に意味があるのは、
肉体の痛みが、人から考える余力を奪い、人の思想を奪うからだ。
人の尊厳を守る方法は、人に考え続けさせる事だけだ。
人に何かの思想を上書きしようとする事ほど、人の尊厳を損なう事もないだろう。
死んでしまう時の後悔ほど、どうしようもない後悔などないのだ。
そのどうしようもない後悔の責任を取れるほど偉い人など、どこにもいない。
生きる理由なんて、無理難題なぐらいの方が、生きやすい。
一生かけても辿り着けないような目的は、本人の人生を死ぬまで飽きさせないし、
本当は存在しないかもしれない、自分が死んだ後の自分が観測できない世界の事に、
何らかの希望を託す事を、自分に対して強いるだろう。
それは、いつか必ず訪れる死を強く認識しても、
人が前向きに日々を精一杯生きようという理由になるのではないだろうか。
足るを知らない事が不幸で、足るを知る事が幸福、という言葉がある。
もしそうなら、幸福な人生っていうのは、生きていないのと同じだ。
不幸がそこにあるから、人は人を生きやすくするために、生きて道具を作り続ける。
人は、幸福だから生きていける訳じゃない。
自分の人生が気に入らないから、生きてそれを改善するような道具を作りたいと思える。
この世に完全な人間など居ないが、強いて言えば、
人が完成された状態というのは、これ以上何も書き加えられる事のない手記のように、
人が死んでしまった状態なのだろう。
私は、生きていてはいけない理由ばかりたくさんある私が、
胸を張って前向きに生きてもいいような言い訳を、ずっと考えていた。
言い訳の言葉は、何かが起こってから使うよりも、
何かが起こる前にたくさん想定しておいた方が、効率よく使える。
そんな私が作った言い訳の言葉が、
人を生きやすくするような道具的価値を持つ私の思想であり、今の私そのものでもある。
私が初めて亡くなったバルダー君を見た時は、朝だった。
その死に顔は、まるで本人も死んだ事にすら気づいておらず、
また明日起きたら、どんなおいしい食事を母に要求してやろうかと、
企んでいるような顔だった。
老犬になって内臓がダメになってきているバルダー君に、
母はミキサーでペースト状にして煮込んだ介護食を作っていた。
それでもバルダー君はグルメなやつで、介護食が毎日同じ材料であると飽きてしまって食べないから、
こちらもバルダー君が好きだった食べ物をローテーションさせて、介護食を作っていた。
きっと最後の日も、おいしい食事を食べる気が満々のまま、体が限界を迎えて死んでいったのだろう。
当時の私は、バルダー君との最後の思い出を最高のままにするべく、
バルダー君の死体を腐らせない為の火葬場の手配で必死だったが、
今の私は、それでこそバルダー君の人生だと、私の想像の5倍は最高の人生であったと、
称えてやりたいと思っている。
きっとバルダー君は、最後の日もおいしいご飯を食べられなかった事を、後悔しているだろう。
だから、彼の人生は幸福ではなかっただろう。
それでも私は、その人生の価値を、高く見積もってやりたいと思っている。
誰が幸福であるかなんて、今を生きている人がそれぞれの人生を生きる理由には、
少しも関係のない事だ。
私が明日にでも死んだ方が良い理由の言葉なんて、
生きている人同士が約束を交わし、人生を共闘する場において、
少しもその道具的価値を誇る事が出来ないものだ。
私が誇れるものは、私が死についてたくさん考えた結果得た、
私が生き続ける事しか出来ない理由を示す、たくさんの言葉だ。
人が語る生きなくてもいい理由を、
黄泉の国の人々がいかに拍手喝采で歓迎しようが、
私は、自分の認識範囲内に入ってしまう生きている人の為に、
生きなければならない理由を語り続け、その事を誇りながら生き続けていたい。
死んでしまった者にも、これから死にゆく者にも、
私はその人生の価値を、その言葉の価値を、高く見積もり、真摯に向き合う。
私の前に老人が居ても、私が見た彼が老いているという理由では、
彼の人生の価値を、低く見積もったりはしない。
教科書に書いてある過去の誰かの言葉が、本当に彼が言った言葉なのかなんて、どうでもいい。
その言葉の価値を評価し、教科書という道具を作った人のやさしさだけでも、
私が教科書を読む意味としては十分だ。
私の思想は、私自身が生きやすくなる為の、私の個人的な経験則でもある。
夢という言葉は、達成するかしないかという観点で語られがちで、好きじゃない。
目的というものは、それが設定される事自体が、
人を生きやすくする道具になり得るのだ。
生きる理由など、無理難題な方が、生きやすい。
死が、自分の人生を観測している現在の全てを失う事を意味しているなら
生きる理由を考える事は、死よりも恐ろしいものを見つけに行く旅なのだろう。
自分にこれを許してしまったら、私が私でなくなってしまう境界線を探す事。
仮に、自分が死んで地獄に落ちても、
自分の執念が亡霊になって、地獄まで自分を追って取り殺しに行くような、
そんな自分が自分を許せなくなる輪郭線を探しに行く事が、
人生であり、思想なのだろう。
死んで何もかも失ってしまうなら、生きてどれだけ多くの事を為したとしても、
それは、人が積極的に生きなければならない理由を、説明しきれていないだろう。
だが、死んでも死にきれない後悔は、人が最後まで積極的に生きる理由に成り得る。
いつか全てを失う事が決まっている、不老不死でも全知でもない人の生き方を、
よりよいものにしようと説明できる理由になる。
何が自分かを語るより、何が自分でないかを語る方が、
人が生きる理由として、使いやすい言葉になる。
仮に、全知の存在が全ての人に対して完全な幸福を定義すれば、
それは、最大多数の最大幸福であると同時に、全ての生きる理由の喪失でもある。
正しい人の形など、どこにも存在しないからこそ、
ただ自分なりに人の形を取ろうと努める者が、人なのだろう。
人は、心の中で弓を引き続け、自分の人生という「型」を、何度も反復練習して取り続ける。
弓を引く度に、先天的で自然で完全な人から離れ、
後天的で個人的な人生を感じられる人に、歪んでゆく。
弓を引き続ければ、「型」も変わる。だが「型」を取り続ける事が、人らしい人生なのだろう。
人という生き物は、目の前に生きづらさがあれば、いつだって道具を作る事をやめなかった。
その道具で自分が生きやすくなる未来が無くても、道具を作る事をやめる理由がなかった。
全ての個人的な人生が、人間社会の未開拓領域を掘り進めている。
その全てに、少しでもハッピーでラッキーな事があってほしいと願う事が、
バルダー果樹園という元思想家の、おせっかいな悪あがきだ。
私は、お前がどんな人間であれ、お前に最後まで最高の人生を生きてほしい。
それが私に言える、無責任ではない範囲内の、最大の愛の言葉だ。